10月10日、ゴルフコンぺ「もみじ・もみじ」のスタートを見送り、さて、宴会の時間までどこに行こうかと・・・
久しぶりに神宮寺周辺を廻って見ようと出かけます。
タイトルの「遠敷(おにゅう)」、字と語感が好きなのですが、基々は「小丹生」の音から来ているのだそうです。
遠敷郡は小浜、上中、名田庄から構成されていましたが、小浜、上中が離脱、最終的に残った名田庄村が2006年に大飯町に合併され、地名としては小浜市遠敷として近辺に残っているようです。
また「遠敷」は遠敷川としてその名前を残しています。
遠敷川は百里ヶ岳を源とし、中流には鵜の瀬など伝承の地があり、松永川と合流し北川へ注ぎ小浜湾に至ります。
神宮寺を通り過ぎてまず鵜の瀬まで行きます。
「鵜の瀬は2羽の白い鵜と黒い鵜が羽を休めた木の跡から、湧水が満ちあふれたのがはじまりという。 遠敷川が左に向きを変える深緑の淵を指す。」(Wikipedia)
鵜の瀬の岸に立ち、川面を眺めていると、流れが折れ曲がっている部分で水が一旦休息するように歩みを止めて佇む感じがあります。
見方によっては水が湧いている場所という感覚も判るような気がします。気持ちがゆったりします。
と言いつつ、その雰囲気を写真にするのがなかなか難しい・・・
鵜の瀬は東大寺二月堂の「若狭井」に繋がっており、3月2日の「お水送り」により送られた水が10日経って二月堂若狭井に届くと言われており、3月12日の修二会※において「お水取り」が行われます。
※ インドの正月にあたる旧暦の二月に、仏への供養をするもので、本尊に対する悔過(=罪の懺悔告白)を行う。
鵜の瀬の資料館の横に東大寺開基の良弁僧正の碑と説明があります。良弁は689年、若狭小浜の下根来白石の生まれとされています。(異説はあるようです。)
若狭神宮寺の開祖である滑元(和朝臣赤麻呂)は、子供の頃からその才能の際だっていた良弁を奈良に連れて行き、東大寺の前身である金鐘寺にいた著名な高僧、義淵に良弁を預けます。
写真の説明では鷲にさらわれてとありますが・・・
良弁は義淵から法華宗を学び、後に新羅の僧、審祥を講師として、華厳宗を納め、東大寺の初代別当となり、さらに華厳宗を広めます。
お水取り行事を始めたインドよりの渡来僧、実忠は良弁僧正の弟子にあたり、神宮寺で修行をしていました。
良弁は大仏建立にあたり、実忠を神宮寺から招き、東大寺完成に力を合わせます。
752年、実忠が東大寺二月堂を建立し、修二会を開いて全国の神々を招きましたが、若狭の遠敷明神(若狭彦・若狭姫神)は漁に夢中で時を忘れて遅刻します。
おわびに本尊に供えるお香水を若狭から送ると約束し、二月堂の下の岩をたたくときれいな水が湧き出し、これを「若狭井」と命名したと伝えられます。
東大寺二月堂のお水取り(修二会の「お香水」汲み)は、良く知られている春を告げる行事ですが、上記の由来にのっとり、神宮寺の閼伽井戸で汲まれる「お香水」は、鵜の瀬でお水送りされ、10日後に、地下を通って二月堂「若狭井」に届くとされているということです。
二月堂の「お水取り」は3月12日に若狭井で行われますが、それに10日先立つ3 月2日に、小浜市神宮寺、鵜の瀬で「お水送り」が行われます。
以下に、サイトで確認したお水送り行事の祭事次第を示します。
お水送りの神事は、3月2日午前10時から下根来八幡宮で行われる山八神事から始まる。供物の赤土饅頭をつけた棒で宮役が外陣の柱に勢いよく「山」「八」と書いて豊作を祈願。
午後1時からは神宮寺本堂で修二会が営まれ、神宮寺遠敷明神宮前では弓打ち神事、弓射大会が行われる。
午後6時頃からいよいよ火の行「修二会」が行われ、「お水送り」行事が始まる。
神宮寺本堂の回廊から赤装束の僧が大松明を左右に振りかざしつつ、3回駆け回る「達陀(だったん)」の行が行われる。
午後7時過ぎ、本堂前で焚かれた大護摩の火が護摩壇に移され、中松明、小松明に順次火が灯される。
山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かいます。
法螺貝の音がこだます中、松明の行列が粛々と進み、30分ほどして鵜の瀬に到着。また護摩が焚かれると、いよいよ送水神事のクライマックスです。
白装束の住職が結界を切り、祝詞を読み上げ、閼伽井戸から汲み上げ、竹筒で運んできたお香水を遠敷川へ注ぎ、はるか遠い東大寺に送ります。
修二会の場である、霊応山神宮寺は714年に天台宗の寺院として創建され、当初、「神願寺」と名付けられました。
715年元明天皇の勅願寺となります。
開基は前記したように良弁を東大寺に紹介したとされる和朝臣赤麻呂(僧名滑元)であり、滑元は泰澄大師の弟子であるとされています。
鎌倉幕府初期には七堂伽藍二十五坊を有する若狭第一の別当寺となります。
1248年、藤原頼経の時に、若狭彦神社別当寺神宮寺と改称され、鎌倉幕府の祈願所七大寺、七大社の一つとなります。
その後、豊臣時代に寺領没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって、僧侶の還俗を強制され、建物や宝物の破壊などが進められ、檀家を持たない神宮寺は衰微します。
どのような努力が継続されたのか、判りません・・・神宮寺は、しかしながら、今もなお、本堂に仏と神が共存し、伽藍の中に社を残した神仏習合のお寺としてあり、境内の厳かな雰囲気に不思議な醸し出しています。
上記は五木寛之「百寺巡礼」第二巻北陸偏およびそのガイド版を参考にさせていただきました。
自分が最初に神宮寺と明通寺を訪ねた時に、明通寺のお坊さんが「来週、五木寛之がテレビ番組の仕事で当寺と神宮寺に来るのです。」とおっしゃっていました。
番組の存在すら知りませんでしたし、またその放映された番組も見逃しましたが、その後、本として出版され、書店に並んでいるのを見かけて「ああ、あれだ!」と、即購入したものです。
ガイド版の表紙には紅葉の神宮寺の写真が採用されています。
北陸偏に載っている福井県のお寺は永平寺、吉崎御坊、明通寺、神宮寺の4ヶ寺になります。
自分のお気に入りのお寺が網羅されていて満足なのです。
ただ、自分が廻った中では、お寺の大きさとしては福井の大安禅寺や武生の引接寺等立派なところがあり、福井びいきでいけばもう少し五木の眼で色々廻って欲しかったと言う気もします。
石川県では阿岸本誓寺、妙成寺、那谷寺、大乗寺、瑞龍寺、瑞泉寺と6ヶ寺が載っています。このうちお参りしたことのあるのは那谷寺のみになります。
「百寺巡礼」によると、神宮寺の開基には種々の説があり、神が仏に帰依したいと願ったという縁起があるのだそうです。
和朝臣赤麻呂は遠敷の土地の豪族であり、元々は若狭彦神を祀っていた。ある日、若狭彦神が赤麻呂の前に姿を現し、下記のように告げます。
「自分は鬼道に堕ちた。当地に悪病を流行らせることになる。寺を造り、仏像を安置し、我鬼の身を救え。」 と・・・
赤麻呂はそれを受け、堂を建立し、仏像を祀り、神の願いにより開基した寺ということで「神願寺」と命名したというものです。
どうも若狭彦は遅刻したり、鬼道に堕ちたり、えらく人間くさい神様という気がします。
日本全国に神宮寺の名前を冠するお寺が建立されていますが、他の神宮寺も若狭彦神と同様に土地の大神である神々が、仏道に帰依したいと望んだことがそのきっかけであったとされているということです。
奈良時代の仏教渡来以降の日本独自の神仏を共存させるため、神社の中にお寺ができ、神願寺、神宮寺、神護寺、宮寺、別当寺などと称される様になりました。
お寺の中に仏を権現として祀る神社ができる鎮守社という場合もあるようですが、神のおられるところにお寺を建立するというのが順当なのかなと思います。
外来文化と古来の文化を融合、あるいは上手く使い分けて、独特の世界観が形成していく日本人の特性は平城、平安のころも、今も変わらないということなのではないでしょうか。
表面的なことですが、正月に神に詣で(お寺もありますが・・)、葬儀は仏事、10月末にはハロウィンで収穫祭(カソリックの万聖節前夜祭)を、、クリスマスにはキリストの生誕前夜を祝い、建国記念日と天皇陛下の誕生日をお祝いし・・・
これらは文化の混淆というよりは単なるお祭り好きで、騒げるきっかけがあればいいということかもしれませんが・・
小浜市役所公式サイトから神宮寺の建築物の説明をお借りします。建築用語は意味不明ですが・・・
前に仏像の見方を参照させていただいた「奈良の名刹寺院の紹介・仏教文化財の解説等」というサイトに、寺院建築も詳しく解説されていました。
俄か勉強では少々難しく、理解するにはもう少し時間が必要です。
神宮寺の本堂は、焼失したものを室町時代末期、1553年に越前守護朝倉義景が再建した。
建築様式は、和様を主体としているが、柱や簗の装飾である木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大陸の技法が用いられており、軒隅の反転とともに華麗な妻飾が使用されている。
仁王門は、神宮寺北の玄関口で、間口6.37m、奥行き3.64m、棟高5.5mで8本の柱の上にこけらぶきの屋根がのっています。
構造や規模は簡素ですが、珍しい形をした蓑束などの様式は室町建築の先駆といわれています。
両端に安置されている木造金剛力士像には、至徳2年(1385)の墨書がみえます。
神宮寺所秘蔵されている木造男神・女神坐像は、室町初期の作で国の重要文化財に指定されています。
薬師如来、十一面観音様と神像の混在、本堂に下がるしめ縄、若狭姫、彦神社に通ずる独特な雰囲気・・・
神宮寺は遠敷地域の不思議な空気の中で、政治の力では断つことのできなかった神仏習合の攀じれを示してくれています。
下記を参照にさせてもらいました。
福井県教育研究所公式サイト
小浜市役所公式サイト
奈良の名刹寺院の紹介・仏教文化財の解説等
五木寛之「百寺巡礼」第二巻北陸偏 講談社刊