伊吹山からおりて、関ヶ原に向かいます。道案内でたどり着いた場所は石田三成の陣があった笹尾山、幟が立ち並び、小さな案内所がありました。
関ヶ原町のホームページ「関ヶ原観光ガイド」を見ると、「西軍好きコース」(巻末に地図を示しました)「東軍好きコース」など2km~10数kmの現地を巡るコースが種々あり、人それぞれのお気に入りの散歩コースを選択できるようです。
色々見てみたい気持ちもありますが、今日の目的は大谷吉継のお墓参りに絞ろうと、案内所で地図を頂き、お墓の場所を教えていただきます。
駐車場もない路傍に、吉継のお墓のある「藤川台」と言うと地を示す看板がたっていました。
関ヶ原の戦いは数万の軍勢同士の戦でありながら、一日のうちに、大勢が決します。
下図はWikipediaにあった当日朝の布陣の拡大図です。薄い青の色が西軍、赤色が東軍、黄色が西軍として布陣しながら、東軍に加担した小早川秀秋等を示します。
印の大きさは人員の規模を象徴しているようです。
徳川家康軍30,000人小早川秀秋軍15,000人、宇喜多秀家軍17,000人、石田三成6,000人、大谷吉継の率いる配下は1,500人です。
左端の西軍の一番下で、小早川勢の攻撃を側面から受けることになる位置に大谷吉継軍がいます。
ちなみに、笹尾山の石田三成陣を目指す東軍の中に金森長近の名前が見えます。
全体図を下記に示します。
右の方にある南宮山にある濃い青色の印は、西軍として布陣しながら参戦せずに、戦いを終えた、毛利秀元(15,000人)、長宗我部盛親(6,600人)、長束正家(1,500人)、安国寺恵瓊(1,800人)および吉川広家(3,000人)の軍を示します。
西軍の主要部隊である、小早川、毛利が抜けることによる西軍の戦力低下は甚だしいものがあります。
ほぼ拮抗していた西軍と東軍(双方とも約80,000人程度と言う)の軍事力バランスに対して、黄色組と濃い青色組を合わせると約48,000人の戦力が西軍から外れ、そのうち、黄色組約20,000人が敵に廻ったのですから、西:8万人-4.8万人=3.2万人vs東:8万人+2万人=10万人と戦力差に大きな違いがでたことになります。
しかも、西軍有利と言われる陣形であった、東軍を挟撃すべき要所に配置された小早川と毛利が機能しないことにより、陣形を崩壊させ、西軍敗走を著しく加速させることになります。
関ヶ原歴史民族資料館のサイトで時間毎の戦況図を示しながらの戦闘経緯の解説があります。
自分なりに要約すると下記のようになります。
「1600年(慶長5年)9月15日、午前8時頃関ケ原を包んでいた濃霧が晴れ、東軍の井伊直政、福島正則軍が宇喜多秀家軍に発砲し戦端の火蓋が切られる。
石田三成軍に対しては黒田長政、細川忠興、加藤嘉明軍が、大谷吉継軍に対しては藤堂高虎、京極高知軍が対峙し、戦いが始まり、戦況は西軍やや有利に推移します。
一方、家康を挟撃する位置にある松尾山に陣取る小早川秀秋は家康と内通しており、機を伺い、動きません。
小早川秀秋の心の内では葛藤があったのでしょうか、攻撃を仕掛けないまま、戦況を見守り続けていましたが、とうとう、向きを西に向けて松尾山を駆け下り、藤堂、京極と戦いを続けていた大谷吉継軍に対して側面攻撃を仕掛けます。
一説には業を煮やした家康が松尾山に向けて銃を仕掛けて参戦を促したという話もあるのだそうです。
病の進んでいた大谷吉継は輿に乗りながら(異説もあるようです)、陣頭指揮をとり、巧みな戦術により、彼我の戦力差を超えて善戦、むしろ押し気味に戦いを展開します。
小早川軍にしてみると、迷いつつ、戦いを始めたため、士気が今一の面もあったのでしょうか。
小早川同様、家康への内通者であった、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱軍は、様子見を続けていましたが、ここに至り、意を決して、その向う方向を西方にとり、吉継の軍に襲いかかります。
数倍いや十倍に近い敵を相手にして奮闘した大谷吉継でしたが、寝返りの波状攻撃に、遂に力尽きて、自刃します。
東軍を背後から襲う位置にあった毛利秀元、長宗我部盛親等は動きを見せません。
毛利家の将来安泰を約して、家康と内通していた、吉川広家が巧みに進軍を阻止していたためとされます。
大谷吉継が斃れると、小早川秀秋等は激戦が続く、天満山の宇喜多秀家の陣に向います。奮戦した宇喜多秀家も、とうとう抗しきれずに敗退・・・西軍の壊滅に至ります。
関ヶ原だけでなく、全日本的に見ても、西軍に参加した武将達が孤立化した面もあるようです。
各藩の事情があったのだと思いますが、三成の盟友であるはずだった直江兼続の支える上杉景勝(会津)、佐竹義宣(常陸)の北方からの挟撃が期待されましたが、動きはありませんでした。
当寺、家康の庶子である次男結城秀康が、上杉を抑え、その功があり、越前に封じられた、と言う説があることを後日、知りました・・・
関ヶ原の戦いは一日で終わったと言うより、戦の前の前哨戦で勝敗が決着していた、と言えるのでしょう。
三成が立ちあがったこと自体が家康の眼に見えぬ挑発に乗せられたという見方もあるようです。
後年、大阪城の外堀を埋められてしまったのと同じように、徳川家康の強固な天下取りの意思と、謀略の知によりシナリオが出来上がっていた。
地道で、周到な根回しをされて、軍勢は分断され、目に見えぬ舞台裏で勝負は決まっていたと言えるのかもしれません。
大谷吉継のお墓のある藤川台は鬱蒼とした林の中にありますが、関ヶ原の戦いの当時は見通しの開けた草原の中で、激戦が展開したのだと思います。
吉継自刃後、その首級は家来の湯浅五助により関ヶ原に埋められ、敵方に渡ることはなかったのだそうです。この吉継の墓は最期を迎えたこの地に、吉継と戦った藤堂家により、建てられたとの説明が立っています。
最初、お墓にお参りしているのは我々しか居ませんでしたが、段々と訪れる人が現れて、10人くらいになりました。
女性の親子らしい方も居たりして、女性に人気がある武将・・・の思いがありました。
吉継のお墓の脇に傅くように湯浅五助のお墓が控えています。
湯浅五助は吉継の首級を、敵に見つからぬよう、戦場と離れたところに埋めたうえで、藤堂陣に切り込み、討ち死にします。
一説には埋め終わった時に、藤堂高虎の甥である藤堂高刑に発見され、「私の首を差しだす代わりに、主君の首を埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて、秘密を守り通した・・・
という話もありましたが、少々美談過ぎるような気がします。
吉継のお墓のすぐ近くに、大谷刑部の碑が立っていました。こちらが最期の場所、ということなのでしょうか・・・
吉継のお墓や陣地跡の宮上に立っている幟に見える家紋は「違い鷹の羽」になっていました。関ヶ原歴史民族資料館の大谷吉継の説明でも家紋は同じく「違い鷹の羽」になっており、関ヶ原としての公式見解となっているようです。
一方、色々な記述を見ると、大谷吉継は秀吉が関白に叙任したときに、従五位下・刑部少輔に叙任されます。
この時より「大谷刑部」と称し、本来「違い鷹の羽」であった家紋を「対い蝶」に変更したという(「古今武家盛衰記」)。
ということで吉継の家紋は「対い蝶」であると思っていましたので、少々意外の感がありました。
なお、「大谷吉継は刑部叙任に際して源姓を名乗ったという説があり、菩提寺の永賞寺の供養塔には「預修源朝臣」の刻銘が現在も残る。」という記述もありました。
また吉継の旗印は下の写真の幟の模様を反転した形の幟を本で見ていましたので、まあ、色々な情報が錯綜しているのだろうと思いました。
※改めて確認したら、ネットに上図の旗印が吉継の軍旗として、でており、軍旗のミニチュア販売でも同じ旗印になっていましたので、自分が見た本の方が誤りなのかと思います。
藤川台から少しあるくと大谷吉継の陣跡、宮上があります。周りに空堀跡などが見えますが、陣地の全体構造は良く判りませんでした。
初めて関ヶ原を訪れましたが、今回は吉継のお墓と陣跡のみに限定しました。
それでも、色々な関連個所の位置関係が見えてきましたので、次回は周辺を歩き廻り、吉継の最期の場面での想いを少しでも感じてみたいと思います。
※関ヶ原観光ガイドのうち大谷吉継関連のサイトが含まれる「西軍大好きコース」の地図をお借りしました。