斉生会病院は明治44年(1911年)、明治天皇の斉生勅語とお手元金で始められのだそうです。100周年・・・福井斉生会病院自体は昭和16年(1941年)設立で、70年の歴史ということになります。
7月27日、手術前、最後の検査、CTと胃カメラを実施、さらに糖尿治療をしているということで、内科で糖尿の先生の診断を受けて、手術に問題ないことを確認します。
全て終了して、大分遅くなり、帰りに何処に行こうという気持ちが失せてしまいますが、前に足羽山付近を走った時に藤島神社というのがあったな・・・と。
例のごとくなにも知識を持たずに向います。
藤島神社は新田義貞公を祭神とした神社で、もともとは新田義貞が討ち死にした越前国藤島の燈明寺畷(福井市新田塚)に建立されたが、移転を繰り返し、現在の地に落ち着いたのだそうです。
新田義貞は清和源氏の流れで、八幡太郎義家の子孫に当るとされる。
関東の上野(こうずけ)国(群馬県)の新田郡の出身で、代々新田氏を称した。
執権北条高時の鎌倉幕府倒幕を画した後醍醐天皇の命を受けて、軍を鎌倉に進め、足利尊氏らと供に元弘3年(1333)5月22日鎌倉幕府を倒す。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武中興の政治が始まる中で、倒幕の論功に不満を唱える足利利尊氏が謀叛、湊川(兵庫)の戦いで、楠正成、新田義貞軍を破り、この時正成は自害する。
尊氏は後醍醐より三種の神器を接収し、光明天皇を京都に奉り(北朝)、自ら幕府を開く。
後醍醐は尊氏に抗し、奈良県吉野に南朝を開き、ここに南北朝動乱時代の幕開けとなる。
新田義貞は、延元元年(1336)、天皇の皇子恒良・尊良両親王を奉じて敦賀金ケ崎に籠城する。
翌年3月金ケ崎落城。尊良親王は自害(金ヶ崎城址にお墓と考えられるという墓石がありました。)、恒良親王は捕えられ、京都へ送られる。
その後、新田義貞は杣山、鯖江、府中と越前国内を転戦、南朝を裏切り、藤島に陣取る平泉寺衆を討ちに向う途中、7月2日(新暦8月25日)灯明寺畷(新田塚)の戦で戦死を遂げる。(藤島神社縁起、Wikipedia)
新田塚から、新田義貞の使用していたと伝えられる兜が掘り起こされ、藤島神社に保管されていると言うことです。(上の写真)
福井5社巡り「福偉神」と言う幟がありました。
下記の5人を祭神とした神社を巡ることを言うようです。
藤島神社:新田義貞
足羽神社:継体天皇
柴田神社:柴田勝家
護国神社:橋本左内
佐佳枝廼社:松平春嶽
神社でいただいた案内で確認すると、藤島神社を過ぎて行くと、足羽山公園に抜けるようです。
急な坂道を少し登ったところに福井市自然史博物館がありました。
博物館のサイトに足羽山の地図がありましたのでお借りしました。
今見ると、継体天皇の足羽神社は藤島神社のすぐ近くにあるのに気が付かずお参りしないまま帰ってきてしまいました。
次回訪れて見ようと思います。
博物館の入り口付近に笏谷石の採掘の展示があります。
笏谷石は福井市内で採掘され、足羽山古墳の石棺などに使用され始め、用途が広がりつつ、一乗谷での仏像等の笏谷石製品の大量出土に繋がっていきます。
福井城の石垣への使用、時代を経ても街の建設用などに使用され、さらには足羽川の水運をを用いて三国港から北前船で全国に広められていきました。
初期の採掘は露天掘りでしたが江戸時代より坑道を用いた採掘になっていったそうです。
屋上にでると天文台がありました。
月一回くらいの割で、天文観測の会が開かれているようです。天文観測も面白そうですが、夜景もまた良さそうです。
東の山を見渡すと雲が多いのですが、下の案内写真によると、どうも中央左手に見える、双子の山が白山で、中央右端の奥の方に見えるピークが荒島になるようです。
写真を撮った時には白山も、荒島さえも厚い雲の彼方と考えていたのですが・・・
下記の案内写真の左端の白い山が白山、中央の窪みに見える白い独立峰が荒島岳になります。
う~ん、もう一度確認しに行かなくては・・・
この後、道案内にあった笏谷神社を探してたどり着きますが、車が止め難いロケーションで通り過ぎてしまい、大分遅くなってきたので、もういいかと、敦賀に向いました。