深坂古道から新疋田駅に帰ってくると、結構大きな駅前駐車場が満杯状態になっています。
ホームに大きな望遠レンズをつけたカメラの人、インスタントカメラの小学生などがどうやら電車を待ち構えている様子です。
駅の時刻表を見ると、この10分くらいの間に、登りの「雷鳥」「イブニングエクスプレス」下りの「サンダーバード」が来るみたい。ということで再び、今度は「愛情込めた」つもりで撮ってみました。
3本の列車が通り過ぎてもカメラマン達はまだまだ粘るようです。
世の中には色んな趣味の人が居るものだと思いますが、人に分からない拘りというか、電車の細かい特徴が判ってくると面白くなるのでしょう。また顔付きが可愛くなってくるとかもあるのかと・・・
駅から離れて疋檀城祉に登るとまたまたカメラマン達が。城祉の広場の向こう側に線路と小さな踏切があり、ここも格好の撮影ポイントになっているようでした。
天主跡は民家の一部になっているようで高圧電流注意の柵が行く手をさえぎられ、眺めるだけでは入れませんでした。
城祉からさらに下っていくと舟川にでます。
深坂地蔵で書きましたが、運河計画に関しては平重盛の試掘の後、近世まで数多くの敦賀-琵琶湖の建設の計画が起こり、あまねく座礁します。
下記のホームページでは関連する計画がリストアップされています。リストの中には敦賀の殿様大谷吉継の名前もでてきます。
北淡海・丸子船の館「塩津~敦賀間運河計画年表」
余談ですが、大谷吉継は戦国時代の武将のなかで、人気がある武将のようです。
前に調べた大野の金森長近が華々しい足跡を残し、考えようによっては巧妙に生き残り、天寿を全うしたのとは対照的に、武骨に短く散っていった壮絶さに魅せられる人が居るのかなと思います。
以前歩いた敦賀城址巡りを再度歩いてみて、吉継のことも整理してみようかなと思います。
疋田の舟川は数多くの運河計画の一つで、敦賀湾から疋田まで水路を確保、船で疋田まで荷を運び、馬車に詰め替え、その後陸路を運ぶルートが確立したのだそうです。
農水省のホームページ(農水省「水土里電子博物館」)に下記のように紹介されています。
「疋田舟川用水は、文化8年(1811年)に大浦~中村(滋賀県浅井郡西浅井町大浦~西浅井町中)の川舟を通すことを陳情し、文化12年(1815年)琵琶湖疏水計画を幕府は小浜藩と協議して、大阪の富商飾屋六兵衛を資本主とし、文化13年(1816年)敦賀から疋田間に舟川を開削し、4ヶ月後に完成した農業水路。」
「 文化14年(1817年)8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運送が行れた。
上り荷は米・海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車で近江大浦へ輸送された。
以後天保5年(1835年)から20年間、この舟川を活用して、北国筋の城米が多く大浦へ運ばれた。」
川底はあまり深くなく、下に丸太を敷き詰めて滑るようにしていたようです。
また舟川の川幅は2.7mあったそうですが今は敦賀湾に向かって左岸に道路が整備されたため、1m程度の川幅に縮小されています。
川沿いの歩道は石を敷き詰め、表示などを充実させて整備をしています。
右岸の石積は当時のまま残されているのだそうです。
運河計画は、地元民、地元経済界の反対により挫折することが多かったようです。
荷駄の業者が打撃を受ける、経済の流れが変わると拠点としての重みが変わるとかローカルエゴがあったのだと思いますが、これほど多くの計画が全て達成されなかったというのは、「堀止め地蔵」の力が働き続けたのかもしれません。
懸案の深坂古道、疋田舟川をようやくあることができて充実の一日でした。