玄蕃尾城

いよいよ8月3日に入院で、4日に出術という日曜日(7月31日)。

脚の状態を理由に山に行かない日が続いていましたが、今日だけはどこかに行こう・・・これが最後かも知れないし・・・と怖がりくまさん、悲痛な気持ちで奮い立たせます。

玄蕃尾城
玄蕃尾城 敦賀市観光情報

本当は伊吹に行きたかったけど、ちょっと体力的に自信がない、まあ野坂だなと思っていたのですが、随分行っていないので、野坂でも不安・・・

怪我でもしたらとか考え出して・・・山とは言えなさそうだけど、前から気になっていた「玄蕃尾城祉」を選びます。

玄蕃尾城址は賤が岳の戦いにおける柴田勝家の本陣となったところで、敦賀市刀根と滋賀県の余呉町柳ヶ瀬にまたがる、内中尾山(柳ケ瀬山)にあります。

柳ヶ瀬トンネル
柳ヶ瀬トンネル

土塁、空堀等がいまだに完全な形を残していることで、城址ファンが多く訪れるみたい。ブログでもかなりの紹介があります。幾つかのブログ情報で、一応行き方を調べます。

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お城好きな人達は几帳面な方が多いみたいで、分岐点等の写真を丁寧に説明してくれている情報もあって、下の写真の柳ケ瀬トンネルも分岐点として紹介されていました。

柳ケ瀬トンネルは、旧北陸線のトンネルを利用しており、単線のトンネルであったため、両サイドに信号が付いている交互通行トンネルです。

たどり着くと車が3台、既に並んでおり、延々と待たされます。

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1,2分程度の生易しい間隔ではなくて、10分単位という感じの待ち時間です。前の車の人達は飽きてきて、車を降りてトンネルを覗き込んでいます。

正直言うと、最初、これが柳ケ瀬トンネルとは気が付かずに、待っていたのですが、しょうがない俺もトンネルの写真でも撮るかとカメラを構えた途端に、あっそう言えば、こんな写真をネットで見たなと、気が付きます。

ここを左折って書いてあった・・・対向車線を行けば、左折できそうですが、いまさら、と諦めて待ちます。

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ようやく対向車線に車が走ってきて、何台か通り過ぎ、信号が変わります。
前の車で隠れていたのですが、トンネルの手前に小さな玄蕃尾城の案内が立っていました。

分岐までたどり着かないと見えません。交差点の上の方に標示してもいいのではないか・・・あるいは柳ケ瀬トンネルの名称だけでもあれば助かるのに・・・

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今年の大河ドラマの大きなきっかけとなった地点としてもっと売り込めたのではないか・・・などと待たされた腹いせでブツブツとつぶやきつつ進みます。

左折してたどり着いた駐車場には車は一台もおらず、ここでいいのかちょっと不安ですが、玄蕃尾城こちらの案内がポツンと立っていて、登り始めます。

道にはうっすらと雑草が生えており、訪れる人が少ないようでした。

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1582年(天正10年)、「本能寺の変」で明智光秀により信長が討たれると、秀吉は「中国大返し」により、誰もが思いもせぬ速さで京に舞い戻り、「山崎の戦い」で明智光秀を打ち破る。

その勢いをかって、信長の後継者を決める「清州会議」を仕切り、さらに信長の葬儀を取仕切ることにより、その勢いを天下に知らしめて行きます。

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柴田勝家は秀吉に対抗して勢力を整えていきますが、北の庄で雪に閉ざされて動けずにいる12月、秀吉は長浜城(柴田勝豊)、岐阜城(織田信孝)を攻略、年明けた1583年(天正11年)、伊勢の滝川一益を攻略するに至る。

2月末、堪らず、柴田勝家は雪を圧して北の庄を立ち、「柳ケ瀬玄蕃尾城」に陣を敷き、「賤が岳」等の木之本に布陣する秀吉軍と対峙する。

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佐久間盛政が陣を敷いた「行市山砦」への分岐

佐久間盛政等の活躍により一時、柴田勝家に戦況が傾きかけますが、抵抗を続ける織田信孝を討つべく、大垣にあった秀吉の素早い「美濃返し」により勝家方を動揺させ、勝家軍は総崩れとなります。

勝家は北の庄に落ちて、お市さんと共に命運尽き、お市さんの娘達、三姉妹は秀吉の元に迎えられます。

この戦場絵巻の中に、敦賀に来てお名前を知った金森長近と大谷吉継の物語が織り込まれてきます。

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柴田勝家は冬を迎えて雪に閉ざされようとする前に、和議をしようと前田利家、金森長近等を使者として秀吉の元に遣わせます。

この時に、前田利家、金森長近達はむしろ、秀吉に巧みに調略されたと言われており、後の戦いの途中で戦線離脱、後に秀吉に仕えることになります。

秀吉と親交の深かった利家に長近が従ったということもあるのでしょうか。

長浜の柴田勝豊の調略には大谷吉継の力があったと言われます。

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また「美濃返し」の驚くべき短時間の移動を可能にしたのは、兵站を担う吉継の差配に因るものだったという話もあります。(小説「大谷吉継」・・・真偽は判りません)

「美濃返し」が吉継の功績であるとしたら、「中国大返し」にも吉継の知力が寄与していたと考えることはできないだろうか・・・

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志賀側への道はさらに雑草で覆われており、歩く人はより少ないようです。3.5Kmはちょっとつらそう、体調が復活したら一度歩いてみようと玄蕃尾城に向います。

ちょっとした登りのあと平坦な尾根になります。時折、陽射しが射し、気持ちがいい。

大谷吉継の人気に比較して、金森長近は現代では人気がないような気がします。

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友誼に殉じたとされ、周りの裏切りの中で、最前線で斃れた吉継の壮絶さに比較して、長近は賤が岳で秀吉に、関ヶ原で家康に付き、加増されていく

・・・後世から見ると、結果として勝ち組を選んだ功利主義者という見方なのかも知れません。

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歴史は好きですが、さほど勉強したわけでもなく口はばったい物言いで恐縮ですが・・・

時の流れを読み、天下を獲る信念を持った、将たる人間が、同時代の皇室、将軍などの象徴を利用し、根回しにより多数派を構成して行く。

世間が気が付くと、いつの間にか大勢が決し、もう歴史は戻らなくなっている・・・そんな歴史が繰り返している感じがします。

根回しをする将、今、ここでは秀吉と家康は、戦に強いということではなく、人を動かすことの天才だったのだと思います。

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それは禄を約束して人を動かす、ということとは別に、この人に天下を獲らせたい、この人なら国を統一してくれる・・・と思いこませる説得力と魅力が備わっている人達だったのではないかと思います。

事実は謀略と演技力の世界だったのかもしれませんが・・・

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長近は勝ち組を選んだというよりは秀吉と家康という人間に乗ったと言うことだったのではないのだろうか?と、いう気がするのです。

当時、戦国武将達が勝ち組に付くことは、我々の判官びいきの正義感では、計り知れない部分で極めて当然なことだったことも事実なのだと思います。

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禄を得るということが家臣団と共に生きて行くための最大の目的であれば、個人や家族のことだけ考えている我々より、もっとドライに割り切った選択をせざるを得ないといことがあると思います。

・・・とまあ、このまま想いを書き続けるときりが無い・・・

実は、手術後の休養期間中に伊吹山に車で登ってお花畑を満喫し、帰りに関ヶ原で、吉継のお墓にお参りしてきました。

続きはその時に・・・

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翻って玄蕃尾城祉(現場には玄蕃尾城跡(げんばおじょうあと)と表記されていました)は南北250m、東西150mの広い地域に明らかに人の手が入っている土塁、や空堀が確認できます。

今まで行ったことのある国吉城祉や金崎、手筒城址などに比較すると、スケール、人の手が感じられるという面ですごい所だなと思います。

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攻撃用の大手口、東虎口の標記があります。玄蕃尾城から南南西方向にある行市山砦に至る尾根筋が勝家側の陣となり、南東側に位置する木之本と対峙していたのだと思います。

ここ東虎口から東の斜面に一気に軍勢が駆け下りて行くのが想像できそうです。

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賤が岳に行った時に、説明板に「付近には昔、樹々はなく草原が広がっていた」という記述がありました。

ここもそうだったのだと思いますが現在は山頂の天主台跡に立っても、視界はよくありません。

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誰もこない城址で一人興奮しまくって、城址を歩き廻りました。

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これだけ遺構が残っているのは、素早い退却で、この城が戦場になることはがなかった、また、その後の利用価値がなく打ち捨てられていたということなのでしょうか。

一番端の北虎口に到着。うーんここは秋にもう一度きて、行市山まで歩こう・・・と決意して戻ります。

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登りでは気が付かなかったのですが、行市山の分岐の所に、柳ケ瀬まで1.3Kmの標識がありました。さあ、杉箸の「又八庵」で蕎麦でも食べて帰ろうと・・・今まで、機会がなく、今回が初めてになります。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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