深坂地蔵は北陸の国主、平重盛が父、清盛に命により、日本海と琵琶湖を結ぶ運河を造ろうとした工事の際、深坂で試掘をした時に地中から発掘されたとされています。
掘削をしていると大きな石が埋まっており、穴を穿とうとしたが、人足が腹痛を起こし、寝込んでしまった。
穿つのをあきらめ、石を掘り起こしたらお地蔵さんが出来てきたため、工事は中止され、お地蔵さんをここに祀ったということのようです。
その後、当時の重要な荷であった塩を備える習慣ができたらしく、塩を備え、代わりに置いてある塩を持ち帰ると身体にいいという伝えができたのこと。
運河掘削を止めたことから「堀止め地蔵」、塩を備えることから「塩かけ地蔵」と呼ばれるのだそうです。
日本海―琵琶湖の運河計画はその後近年にいたるまで何回も計画されては、その都度深坂地蔵さんの意思が働き?中止されます。
「疋田舟川」もそのひとつの名残になります。
深坂古道を歩いて、深坂峠の最高点を通り過ぎて、林道を行くと深坂地蔵へ左折という表示が出てきます。
中部北陸自然道とかいう立派な標識ですが、曲がったところには休憩用のテーブルとベンチがありますが、ほとんど雑草に埋まっています。
テーブルの廻りを探しても道らしき道はありません。あきらめて林道に戻り、歩き続けると、左に深坂地蔵50mの表示あり、坂を下ったところにお地蔵さんはありました。
深坂地蔵の境内は小さいけれど最近立てられたようなお堂が建っていて綺麗に整備されています。休憩所、トイレまで備え付けられています。
深坂古道を歩いていて、「地蔵さん」って崩れ落ちるようなお地蔵さんが山の中にぽつんと居るんだろうなと思っていましたがえらく印象が違い、広く信仰の対象として支えられている感じがしました。
お堂の廻りに小さい地蔵が並んでいますが大部分のお顔が擦り減っています。
休憩所のところに表示があり、地蔵の傷みが激しいので塩をあげるのは止めてくださいと書いてあります。
お堂の前にある鍵付きのお賽銭箱にお賽銭を上げ、鈴をならして・・ふと迷います。神社と一緒でいいのだろうか?まあ、2礼2拍手1礼でお参りをして、お堂の引き戸を開けると一瞬たじろぎます。
のっぺらぼうのお地蔵さんが大きなエプロン羽織って鎮座まします。塩害でお顔が無くなってしまったのということなのでしょう。
お線香、ろうそくなどがお地蔵さんの前に沢山供えられています。マッチやろうそくを消す水を入れた容器も用意されています。お線香を上げさせていただきます。
このお地蔵さんが発掘されたという当時のものなのかどうかわかりません。
脈々と信仰の対象として崇められ、参拝者も多い様子でいることがなんとなく伝わってきて暖かい気持ちになります。
ご丁寧にもご自由にお持ち帰りくださいというお守りがあります。遠慮なく一つ頂きます。今考えるとその分、お賽銭を増額すべきだったでしょうか・・・
しばしお邪魔して、さて、塩津方面に歩こうと思いましたが、先ほどの休憩所の看板に、火を着けたろうそくやお線香は消火していって下さいと書いてあります。・・慌てて戻ってお線香を消します。
滋賀側から深坂地蔵までは参道として直線的に延びた道が整備されています。
現在も紅葉の苗木を参道の両側に植えており、継続して整備されているようです。
福井側の古道がよく整備されていて、滋賀側の古道は打ち捨てられ、むしろ新しい、林道あるいは参道となっていることが不思議でした。
地蔵さんを見て思ったことは信仰の厚みというか人の係わりがはるかに濃いため、古道保存というより参道としての機能確保ということが重んじられ、使用されない古道が雑草に埋まることになったのかなと思いました。
また歴史的、地域的に、戦場だったり、参拝客の利便のため開発が繰り返されたりして古道の残存する範囲が少なかったということもあるのかもしれません。
表示がないのですが、昔栄えた問屋場だった石積みを示すところだと思います。
参道を抜けると塩津側の駐車スペースがあり、そこからは集落の中を舗装された道をあるきます。駐車場を過ぎたところに合歓の花が満開でした。
8号線に出た証拠写真を・・・
ここからさらに敦賀側に8号線を戻るように歩くと、有名なお茶屋さんがあったようですがこのときは気がつかず、ここで折り返します。
少々くたびれて再び追分に戻ってきて民家のお庭に咲いている名前知らずの花とひまわりを・・・これから舟川に向かいます。