以前、敦賀駅に敦賀市の紹介をしたリーフレットが幾種類も置いてありました。その中に「深坂古道」を見つけて前から歩いてみたいなと思っていました。
深坂古道は平城、平安の時代から開かれていた敦賀南部と琵琶湖北部の塩津を結ぶ街道でした。

その後、物流の増大に伴い、現在の8号線に当たる道が開かれて、だんだん廃り、明治時代には使用されなくなったようです。

深坂古道のある愛發(あらち)地区は、敦賀南部の琵琶湖に繋がる山間地域のことで、面白い名前ですが、平城京時代に愛發関が置かれていたことに因んでいるとのことです。
古道の入口である追分は現在の161号線で海津に向かう道と深坂を抜けて塩津に向う深坂古道の分岐にあります。

土曜日の朝、5時に目が覚めて、どこに行こうか?昨夜の日本酒が効いているから完全休養か・・・相も変わらぬ休日の朝の葛藤があり、懸案だった深坂古道にしようと、6時半頃に出発。
新疋田の駅前駐車場に車を止め、駅の中をのぞくと、無人駅の様で、壁に「この駅はこんな列車を見ることができます」ってパネルが貼ってありました。
ホームに出てみると、長浜方面には深坂トンネルがあって雰囲気のある駅です。

待合室で寝ている人がいて、ちょっとビックリ。
旅人が仮の宿にしてるのかなと思いましたが、大きなカメラを持って外に飛び出していきます。彼が昇り方面のホームに渡ると貨物列車が入ってきました。成程、あれを狙っていたんだと・・・

何だかわからないけど、自分も撮影してみました。対象に愛情が湧かないと写真も力が入らない・・・
というところで、いよいよ深坂へ歩き出します。

裏から見る岩籠山は敦賀側から見るよりピークが近いような気がします。

通り過ぎていく追分の村もなんとなく風情があるところで蔦の絡まる蔵があったり、明治開基の日吉神社があったりします。
入母屋構造というのでしょうか?2重構造にした様な屋根のお宅があります。2層の中間には空気抜きの様な窓がついています。
2層構造にして空気の断熱層を作っているということなのかなと。上層の屋根は勾配がきついので、雪が落ちやすいようにしているということなのかと思います。
法然上人800年忌のポスターが・・・
浄土宗というと敦賀の西福寺が想い当たります。西福寺の中を拝観させていただいた時に、上人のお姿を描いた絵が飾ってありました。
自分の父の家系の宗派も浄土宗で、亡き父も母も浄土宗の戒名をいただいています。

今「時宗」を第3巻まで読み終えました。外的の脅威を訴える日蓮が浄土宗のことを念仏を唱えて浄土を願う邪宗の様な言い方をしています。浄土宗、日蓮のことを少し勉強してみたいと思います。
追分の集落を抜けると深坂です。バックの小屋の荒れ様が見事です・・・

深坂古道の説明文があり、いよいよ古道が始まります。
道には雑草が薄く生えており、訪れる人はあまり多くないようです。
沢というか小川沿いに歩いて行くような感じです。雑木の中をひたすら歩きつづけ、見晴らしはよくありません。
後ろを振り返るとしばらくは岩篭が見えていましたがいつかそれも見えなくなり、苔むす石の転がる平坦な道を歩き続けます。
「野坂一人旅」に書かれていたサルナシだと思います。

野坂に登った最初の年に見たヤマジノホトトギスがありました。去年、一昨年は見ていません。

しばらく行くと、紫式部や万葉集で詠まれた愛發の唄の説明がでてきます。
紫式部はお父さんとこの道をあるいた時の詞と歌を残しています。
途中にベンチなども用意してありますし、沢を渉る橋も立派なものに架け替えてあり、手入れは行き届いているようです。
下りで気がついたのですが、距離表示もちゃんとついていました。

見事なクモの巣が・・・

江戸時代に道が整備されたということですのでそのころの石積みの名残なのでしょうか?

若干の昇りになってしばらくすると最高点の深坂峠に。
あい変わらず、展望はありません。左右に山城跡があるらしいのですが、大分藪漕ぎが酷そうで、行く気になりません。

山城への昇り道らしい。

峠にたどり着くまでは山道ですが峠を越えると林道に変わり、開けた感じになります。峠から少し行ったところが福井と滋賀の県境になっていました。

ここまでだれにも会うことがありませんでした。これから深坂地蔵経由で滋賀側の入口まであるき、帰りがけにようやく二人の人が登ってくるのに会いました。
地蔵以降は次回に・・