阿尾城から降りてきて、このまま元来た道を行くか、それとも海沿いに行っても行けそうだけど、どうするか・・・
と、立ち止まったところに、車が一台近づいてきて、窓が開きます。
集合場所はこちらの方角ですか?って、短パン、ハイソックス姿の自分がウォーキング会場に向かっているものと勘違いしたようです。
えっ?まったく方向が違うよ。
俺は行ってないから正確に解らないけど、地図で見たら、集合場所の「ふれあいスポーツセンター」はもっと南に行って街の中央部に近いところにあったよ。
礼も言わずに窓がしまり、車が去っていきました。それなりの年配の男だったけど、お礼の一言もないのかい・・・
海の方向に歩いて行くと、突き出た阿尾城跡の左手は人工的な海岸になっていて、そこに割烹民宿「城山」がありました。(実は前回の下から2番目の写真が城山なのですが・・・)
内部の造りは解りませんが、海側の部屋であれば、部屋から海越しの立山連峰を眺めることが出来そうな絶好の立地です。
以前、スイス出張の際、ユングフラウに行ったときに、グリンデルワルドで一泊したことがありました。
グリンデルワルドのホテルのテラスの椅子に座り、目前に聳えるアイガーを暗くなるまで眺めていたことを思い出します。
なぜ出張でユングフラウに行く必要があるか、っていう話は置いといて・・・
グリンデルワルドの駅から大分離れたホテルで、結構歩きました。
手配した子会社の旅行代理店を呪いつつ歩きますが、チェックインして、部屋のテラスに出ると、駅からは見えなかったアイガーが目の前にありました。
テラスの椅子に腰掛けたまま、動けません。
ストリップ劇場のかぶりつきで息を飲んで、舞台上の一点を凝視するように、と言うと語弊があるでしょうか・・・
確か、夜の8時過ぎまで、薄暗くなったアイガーの輪郭が見えていた記憶があります。
現地で装置の開発試験をしていた同僚二人が同行していたのですが、彼らも同じように見ていたのか、夕飯をどうしたんだろう、とか周辺のことは、全く思い出せません。
話は戻って・・・
この「城山」に宿泊したら、冬でも窓を開けっ放しで眺めているかもしれないなと。
よし、冬の氷見を訪問するときの宿泊先の候補の一つに入れようと、パンフレットをもらいます。
人工海岸に座りこみ、しばらく海と対岸を眺めていましたが、目的地とした「長坂の棚田」までにはまだ、先が長そうなので、立ち上がります。
この先にも後ほどランチした海岸の崖の上のレストラン兼ホテル、ラ・セリオール、昨夜の居酒屋の親父さんの民宿灘浦荘など、窓から立山連邦を拝める宿泊設備がいろいろあり、選択肢は多そうです。
しばらく歩くと「九転十起の像」にたどり着きます。七転び八起きの上を行く辛酸をなめつつ、最後に成功した、ということのようです。
像の主は浅野総一郎、スタイルがなんか親しみが持てるけど、いかにもただ者でなさそう・・・「京浜工業地帯の父」との説明があります。
銅像の基礎に埋め込まれたパネルに記載された、彼の業績を読んで行くと、建設、土木、エネルギー産業、化学、機械工業、船舶、鉄道などの輸送などなど、多方面にわたる企業の創立者として名を連ねています。
横浜港などの港湾施設の近代化、京浜工業地帯の埋め立て自体が、この浅野総一郎が立案して、進めた成果なのだと・・・・
「九転十起」の言葉は危難を何回も乗り越えて、成功を収めていった、浅野の伝記映画のタイトルでもあるらしい。
「くま」の会社人生のスタートは鶴見の大黒町にあった、小さな石油工場でした。
向かいは東電の横浜火力発電所、隣にマルハの飼料工場があり、風向きによっては、飼料の臭いが工場中に充満し、現場を歩くのが憂鬱だった記憶があります。
隣に文句でも言おう物なら、お前のところも白煙を上げているだろうと反論してくるのだと、煙でなく蒸気だぞ、と言うのは外部に対して説得力がないらしい・・・
いや、これはかなり記憶の彼方の思い出なので、先輩の冗談が残っているだけで、実際にはこんな険悪な関係であったとは思っていませんが。
おまけに、自分のいた工場はあまり自慢出来る状態ではありませんでした。
入社した翌年、ジェット燃料出荷のローディングデッキで大爆発を起こし、タンカー炎上、二人死亡の事故が発生します。
詳細は記憶になく、ネット上で調べても、わかりませんでした。
その爆発事故以前にも、LPG、ベンゼンなどの設備で事故を起こしており、事故多発の工場として、悪評高きという感じで肩身が狭い思いをしていました。
話は変わります。
当時、日本鋼管の川崎工場が公害の矢面に立たされて、たこ足工場の集約化もかねて扇島に移転したのが自分の入社と前後していました。
その、日本鋼管自体は浅野総一郎の娘婿が創立した会社ですが、後に、浅野が造った浅野造船所と合併し、さらに後に、日本鋼管は川崎製鉄と合併、JFEスチールとJFEエンジニアリングに別れるので、浅野はどちらかというとJFEエンジニアリングの祖ということになるのでしょうか。
移転先の扇島の地名は浅野が建設した鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)の駅名である扇町の沖合の島という意味であり、その扇町の駅名は浅野家の家紋の扇に由来しているとのこと。
鶴見線にはさらに、浅野駅があり、浅野に、資金的、精神的援助をした、同郷の先輩、安田善治郎の名前を取った、安善駅がある・・・安善の意味をこの歳になって、初めて知りました・・・ことなど、浅野が関わった足跡が至る所に残っています。
当時なにも知らずに通勤していましたが、まるで浅野総一郎の手の平の中でうごめいていたんだと・・・
浅野総一郎の人生を追うと、若い頃はアイデア倒れで、行き当たりバッタリの感じもありますが、一度成功を収めてからは、関連の事業を有機的に結びつけて、発展していったような気がします。
浅野は氷見の医師の長男として生まれながら、商人への志を幼い頃から抱いていたようです。
15歳にして医学を捨て、実業家としての人生を始めることになり、織物製造販売、醤油製造販売、農具(稲扱き機)レンタルなどを手がけますが、アイデアが先行して、実質が伴わない状態が続きます。
20歳の時、米などの産物会社を始め、軌道に乗り始めたところで、明治維新の動乱があり、挫折し、1871年(明治4年)、24歳の時に上京。
御茶の水の名水に砂糖を入れただけの水を売り出し、初夏から8月の暑い時期で、それなりに売れて、金を得る。
秋口になって、水の売れる時期が終わると、当時食品の梱包材として広く利用されていた竹皮に目を付けます。
浅野の尋常でないところは、自分でこうだと思った仕事を考える時の商売の単位というか規模が大きいこと、また、商品への付加価値を付ける努力をするということがあるようです。
買い付けに使用した舟一杯に大量のタケノコの皮を仕入れ、腕の良い加工職人を見つけて、竹皮の加工販売を路線に乗せます。
1872年(明治5年)、薪炭や石炭を取り扱いますが、その後、石炭にターゲットを絞り、商売を発展させていきます。
1876年(明治9年)、火事に遭い、横浜に移転し営業を続けますが、石炭を納めている横浜瓦斯局から、石炭ガス製造の副産物であるコークス処分に困っていることを相談され、深川のセメント工場の技師に相談、コークスをセメント製造の燃料として、利用する道を見いだします。
横浜瓦斯局から入手したコークスをセメント工場に納めて多大な利益を上げていきます。
さらに同じく、ガス化の副生物であるコールタールの処分も依頼され、コレラの消毒用の石炭酸(フェノール)の原料として売却し、これも成功を収めます。
1884年(明治17年)に官営深川セメント製造所の払い下げがあるとそれを引き取り、後に浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)を設立します。
セメントは当時はまだ、目地材的な用途しかなかったようですが、港湾建設、鉄道建設が盛んになりつつある時で、コンクリートの需要が飛躍的に高まりつつあることを浅野は見据えていたということなのでしょうか。
浅野が飛躍していく影には、第一国立銀行頭取で、王子製紙の社長でもあった、渋沢栄一の協力がありました。
王子製紙にコークスと物々交換で石炭を納入していた浅野が人足と共に、働く姿を見た渋沢栄一は、浅野に興味を持ち、絆を深めることになります。
浅野は渋沢の力を借り、あるいはその助言をもとに、炭鉱の開発、水力発電所建設、鉄道建設、海運業の創設と手を広げていきます。
渋沢に加えて、同郷の有力者、安田善治郎がバックアップするなど、浅野の資質と熱意に対する信頼が人を集めて、突き進んで行ったのでしょう。
浅野は海運業の開業後、航路開発をかねて、海外視察をします。
浅野が見たのは、当時荷役を艀に頼っていた日本の港に対し、巨大船が直付し、効率的な荷役ができる海外の港湾設備でした。
帰国してからの浅野は京浜地区における港湾施設の整備と、その後背地の工業地帯整備を目指した広大な埋め立て計画を提案しますが壮大過ぎて、自治体に受け入れられなかったのだそうです。
安田善治郎が資金協力し、自ら1908年に鶴見埋立組合(現、東亜建設工業)を設立し、よやく1914年に埋め立てが始まります。
明治維新以降の、産業の勃興していく中で、高まる建設熱へのコンクリート需要を満たすセメント会社を出発点として、石炭、石油(精製、探鉱、掘井)、ガス、電力などのエネルギー産業、鉄路、道路、船舶(輸送、造船さらには材料製作の製鋼まで)、港湾設備の築港などの運輸産業、港湾と表裏一体で開発する埋立による工場用地の確保と工場の集中立地などに精力的に携わって行った経緯は感銘の一言です。
明治維新には遅れて、生まれましたが、明治産業維新というべき、時代を既存勢力に抵抗しながら、戦い抜いた近代化の志士、という感じがします。
浅野の有り余る業績を時系列で拾って行くと下表のようになります。
年 代 | 浅 野 総 一 郎 史 |
---|---|
1871(M 4) | 上京。冷水販売、竹皮販売 |
1873(M 6) | 薪炭から、石炭販売にターゲットを絞り、横浜瓦斯局と関係を築く。 |
1876(M 9) | ガス製造廃物のコークスをセメント燃料として利用先を開拓し、飛躍。 |
1879(M12) | 横浜市に日本初の公衆便所を建設。下肥汲取料が商売になることを立証。 |
1881(M14) | 深川の官営セメント工場払い下げ。 |
1884(M17) | 浅野セメント(現太平洋セメント)設立 |
1884(M17) | 渋沢栄一等と磐城炭鉱社設立(1886年常磐炭鉱軌道敷設、常磐線提案) |
1885(M18) | 東京瓦斯局から払下を受け、渋沢と東京瓦斯会社(東京ガス)を設立。 |
1886(M19) | 浅野回漕店設立。石炭およびコークスの輸送。(東洋汽船設立時解散) |
1888(M21) | 渋沢等とサッポロビール設立。 |
1890(M23) | 帝国ホテル創設参画 |
1892(M25) | 青梅電気鉄道創設。セメント材料の石灰石移送。 |
1893(M26) | 浅野石油部創設(日本石油に吸収)横浜に油槽所、石油タンク建造。 |
1896(M29) | 渋沢、安田善治郎等の協力を得て、東洋汽船設立(日本郵船に対抗) |
1896(M29) | 航路獲得のため、海外視察。海外の港湾施設に刺激を受けて帰国。 |
1898(M31) | 日本初の石油輸送用鉄製タンク車使用。 |
1899(M32) | 柏崎石油精製工場計画(輸入原油精製を計画) |
1899(M32) | 東京府知事に品川湾埋立出願するも却下 |
1900(M33) | 日本送油会社設立、柏崎へのパイプライン敷設 |
1902(M35) | 宝田石油設立(後に日本石油に吸収) |
1904(M37) | 神奈川県庁に鶴見~川崎間の埋立許可願書を提出も却下 |
1905(M38) | 輸入原油精製の南北石油、06年東亜石油設立。保土ケ谷製油所建設。 |
1905(M38) | 世界初の重油ボイラー船「天洋丸」発注起工(1908年就航、石炭で運航) |
1907(M40) | 沖商会経営参画(妻の姻戚関係)、中外アスファルト(日本鋪道)設立。 |
1907(M40 | 南北石油、保土ケ谷製油所で日本で初めて輸入原油を処理。 |
1908(M41) | 鶴見埋立組合組織。鶴見川崎地先の海面埋立事業許可申請提出。 |
1913(T 2) | 渋沢、安田等の協力で、関連の権利買収も含め許可を得、東京湾埋立の着工。 |
1914(T 3) | 鶴見埋築株式会社(現東亜建設)設立し、埋立事業を進める。 |
1914(T 3) | 浅野造船所(現JFEエンジニアリング)、鶴見臨港鉄道(現鶴見線)設立。 |
1918(T 7) | 沖電気設立に参画、実質的経営者となる。電話交換機参入。 |
1918(T 7) | 浅野同族会社設立(浅野財閥)。浅野小倉製鋼所(新日鉄八幡)創立。 |
1919(T 8) | 庄川水力電気会社および関東水力電気設立。 |
1919(T 8) | 技術導入したカーリット(爆薬)の製造開始。翌年日本カーリット設立。 |
1920(T 9) | 大正活映(谷崎潤一郎を制作部に雇用)、浅野綜合中学校設立。南武線敷設。 |
1922(T11) | 小倉の埋立築港事業許可、1931年より埋立開始。(小倉築港) |
1928(S 3) | 鶴見埋立事業完成。浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所などが進出。 |
1928(S 3) | 群馬に佐久ダム、発電所を建設(佐久は故妻の名前)。 |
1929(S 4) | 山下汽船とともに尼崎の埋立を目指した尼崎築港を設立。 |
1930(S 5) | 浅野総一郎逝去。享年82歳。 |
・商社機能として浅野物産(後に東通)を設立、後に丸紅に吸収される。
・戸畑鋳物と共同で自動車開発を行い後の日産自動車の基礎を築いた。
・北海道でも石狩石炭会社(夕張)を経営したが、三井に売却。
・北海道の製鋼所建設のために、室蘭でも埋立と築港。
というところで、浅野総一郎調査に時間を費やし、ウォーキングの記録途中であったブログ更新が吹き飛んでいました。
ようやく、ウォーキングの記事に戻ります。
九転十起像から暫くして、海岸を離れて山道を歩きます。
だんだん坂がきつくなってきたところで、明日の投票を呼びかける、選対のアナウンスカーが追い抜いていきます。
なんだこいつはと、不審者を見る目付きに、ちょっと上まで乗せてもらってもいいんだけど・・・と訴える目付きで応えますが、通ずる訳もなく・・・
ちょっとあごが上がったところで、緩い下りに入り、長坂にたどり着きます。
大いぬぐす、枯れて残骸しかなかった大椿を確認して、棚田を探しますがありません。近くの田んぼの畑の写真を撮りますが、どうも普通の田んぼのような気がします。
標識で近くに滝があるということで、農作業しているおばさんに訊き、歩き始めますが、道が沢に入り込んだ途端に、大荒れに荒れていて、歩けそうもありません。
大雨での出水がひどかったようで土砂と流木が絡み合って居る状態でした。
あきらめて、長坂を折り返し、海岸通りに向かいます。
バスの最終時間少し前に、海岸に到着。暫く待って最終バスで、番屋街まで帰りました。
後で確認すると「棚田」は長坂の村落から少し登る必要があったようで、やはり、自分の撮った「棚田」は棚田ではなかったようです。
でも、結構体力的にはもう歩きたくないというところでしたので、ちょうど良かったかもしれない。
歩行距離は約21kmになり、まあまあ、ではありました。
浅野総一郎の資料については以下を参考にしました。
東亜建設工業公式サイト
日本カーリット公式サイト”尼崎築港の歴史”
アマチク公式サイト
OKI公式サイト””社史「進取の精神」
「浅野財閥の多角化と経営組織」 小早川洋一
日本の石油業界年表(1)明治維新から1945年終戦まで
有隣堂PR誌座談会”京浜工業地帯の父 浅野総一郎の軌跡”
講座「企業の歴史と産業遺産~東京ガス~」東京ガスミュージアム 高橋 豊
Wikipedia:”浅野総一郎”、”浅野財閥”、”扇島”など