6月28日、千葉市立美術館で開催されている椿貞雄の歿後60周年の展覧会に行きました。
椿貞雄は岸田劉生と行動をともにして評価を得た油彩画家。岩手に生を受け、画家を目指して中学を中退して上京し、岸田劉生に認められる。

船橋で教職員の職を得たことから、後半生を家族と共に船橋で過ごし、活動の拠点とした、千葉と深い繋がりを持つ画家であることを知りました。
朝、月2回開催の「古文書を読む」受講で三井ガーデンホテルの朝日カルチャーセンターへ。
講義は12時までだけど、先生に時間の余裕があるときは質問に色々応えてくれて、全て終わるのが10分、20分過ぎる時もあります。

文書を読み解くための時代背景、手紙のやりとりの双方の人間関係などを丁寧に説明していただけるので、つい興味が広がってしまって、こちらも質問魔になってしまいます。
夕方に保険会社の担当者と話があり、千葉駅で会うことになってます。
三井ガーデンホテルのある中央公園付近はあまり縁がありませんでしたが、カルチャーセンターに通うようになり、駅からの道を色々と探索中です。
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少し足を延ばして、千葉市立美術館、プラネタリウムのあるキボールなどを知り、千葉をぶらつく機会も増えてきました。
中央公園付近は核になっていた「PARCO」が撤退し、飲食店も閉店しているところがあるようですが、新しい飲食店もちらほらとできています。
中央公園付近の居酒屋さんで食事をして、千葉市立美術館に向かいます。

「椿貞雄 歿後60年 師・劉生、そして家族とともに」(椿貞雄展図録集)を参考にさせていただきます。
椿貞雄(1896-1957年)は四男四女の三男として山形県、米沢に生まれる。旧制中学の頃から、長兄の影響を受け、水彩画を始めた。
画家を目指し、1914年、中学を退学し、上京、岸田劉生の個展を見て、圧倒される。

椿がその時に見た劉生の作品は解りませんが、後になりますが、椿が高く評価した劉生の作品として「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」(1916年)が展示されていました。
同作品を椿が論評しています。
「緊密厳格な描写、皮膚の持つ不気味さ、生々した生き物の不思議、真迫感、それは徳川期の能面を思はしめる。それは実に東洋の持つ独特の味であり宗教であり神秘である。」

劉生に手紙を出し、面談を申し入れ、了解をもらった椿は本展覧会のポスターに採用されている自画像と、風景画を持参する。自画像は劉生の個展を見た感動を反映させたものであった。
劉生はこの自画像を高く評価し、周囲の人間に紹介する。
「自画像」が当時、日本画の新人の登竜門であった「巽画会」で二等賞に入選、椿は画家として生きる決意を固める。

その年、劉生の立ち上げた「草土社」の主要会員として行動を共にするようになる。
1916年、岸田劉生が病で、戸外制作ができなくなり、静物画を描くようになると、椿も共に、冬瓜などの静物画を描く。
その後、劉生は南宋画の世界を探り、今までの画風を超えた世界を広げていきます。

劉生の才能の広さを感じさせて、さすがと言うところなのですが、椿はここで、師の変化に対して、同様の画題を取り挙げても、自分の画法にこだわりを見せます。
椿のぶれない無骨な個性を感じさせて面白い気がします。
1927年、椿は船橋町立小学校の図画教師に着任、家族とともに居を移し、1957年、61歳で亡くなるまで、船橋で過ごしました。

椿貞雄の作品を多く所蔵している清川コレクションをベースにした清川記念館(仮称:椿貞雄美術館、船橋市立美術館)設立の話があるようですが、建設に至っていないようです。
1929年の師劉生の死、1932年のヨーロッパ外遊などを経て、椿は独自の世界を構築していきます。
自分には肖像画、静物画、桜島の風景画など、面白い絵が多いと思います。

展示を見終わろうとしていた時に、トークギャラリーがあるというので、もう一回廻ってもいいかと楽しみに参加しました。
ボランティアの方のトークギャラリーで、まあ、書いてある説明をその通り、なぞるだけで、ちょっと物足りない気が…

そのうち、「椿は、系統だった画家の勉強をしていないので、初期の絵はデッサンが出来ていないんですよ。」と辛辣なご発言が…なんか愛情が感じられない…と離れてしまいました。
新装成った千葉駅内のカフェで保険会社の人と待ち合わせを。コーヒーをおごっていただき、お話を済ませました。

保険会社の担当者、最初にお会いしたときは、上司帯同でお会いしたのですが、新人の頼りない女の子で、任せられるのかよと心配しました。
今や地域マネージャーとかになり、あちこち飛び回っているようです。鍛えられて、自信に溢れた顔になっていました。