夢殿に来ると、クラス毎のグループに分かれた、大きい修学旅行の団体と一緒になって、辟易します。大体が狭い境内で、団体が占めてしまうと、居場所がない。
夢殿は奈良、京都を廻った中学の時の修学旅行で絶対に来ているはずと思うけど、全く記憶にありませんでした。
大体が、奈良で微かに覚えているのが薬師寺の高田好胤師の法話なんだけど、当然のごとく内容は覚えているわけがなく、面白いお坊さんがいたということだけです。
好胤師の説明にあったと思うのですが、西塔の礎石の凹みに堪った水に映る東塔の水煙を確認した記憶が残っています。
3年前でしたか、西塔の再興した薬師寺を再度拝観したときに、金堂で説明された僧侶は、好胤師にならったような、受け狙いのお話をされていて、伝統なんだなと。
受けは今一のような気がしました・・・
不謹慎ながら、ジャパネット髙田の社長さんの語り口を社員がなかなか伝承できずに、社長自らのテレビ出演を続けざるを得ないことが思い浮かびました。いよいよ御引退されるとのニュースが過日ありましたが。
好胤師は法話の面白さだけでなく、アイデアマンで、師の努力により写経を広め、そのお布施により金堂、西塔などの再建を進めたという話を知りました。
法隆寺は聖徳太子を開基として607年に創建されたことは前回に書きました。
太子(622年)の没後、蘇我馬子(626年)および推古天皇(628年)と入滅され、馬子の子蘇我蝦夷、またその子、蘇我入鹿の権力が高まり、朝廷を、巻き込んだ豪族の権力争いがはげしくなる。
太子の御子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)はその争いに負け、自害、太子の皇統が絶たれることになる。
その後、入鹿の暗殺による蘇我氏の滅亡、と大化の改新による体制変革、近江京などの遷都など移り変わりの中で太子が建立した法隆寺も衰退して行ったようです。
荒廃した斑鳩宮跡に、天平11年(739年)、行信僧都により、伽藍が建設され、これが夢殿を中心とした東院伽藍であった。
夢殿のご本尊は救世観音で、聖徳太子のお姿でを表した仏様とされているのだと。
ご本尊は厨子内におられ、お詣りすることはできませんでした。
春と秋に厨子が解放されるということで、京都も含めた訪問時期を検討する必要がありそうです。って、なんかおおげさですが・・・
今回、東大寺、興福寺周辺、斑鳩と歩きましたが、空振りした正倉院(平日しかオープンしないなんて・・・)、時間が物足りなかった興福寺国宝館の他、まだ見ぬ吉野、金峯山寺、明日香村が待っているし・・・
再訪したい薬師寺、唐招提寺、室生寺などと、奈良もどうも、自分の心の中のかなりのスペースを占めつつあるようです。
そろそろ伊勢、熊野、高野山に脚を向けたいと考えていますし、懸案の郡上八幡などお隣の岐阜がほとんど手つかずで、もう大変です。
修学旅行コースには中宮寺は含まれていないようで、中宮寺の受付まで行くと、大分静かになります。
中宮寺は創建当初は斑鳩宮を中心として、法隆寺と対の形に作られた尼僧寺院であったが、平安に火災にあったのを初めてとして、数次の火災で全て焼失し、国宝、仏像は法隆寺に移されたということのようです。
昭和の代に建立された本堂には著名な半跏思惟像が・・・
創建当初からの仏様なのか明確ではないようで、自分は弥勒菩薩と覚えた記憶がありますが、古くは如意輪観音として言い伝えられてきたのだそうで、弥勒菩薩と言われるようになったのは最近なのだそうです。
夢殿の救世観音同様に聖徳太子のお姿を表したという言い伝えもあるようです。
後からこられる参詣客に邪魔にならないように脇にずれて座り、少し斜めの角度から、お姿を拝みつづけます。
照明が暗いのですが、中性的な不思議な穏やかな表情とお姿に魅入られてしまいました。