金堂の拝観を終わる頃には一気に人が増えます。
ツーリストに導かれた韓国、中国の団体さん、修学旅行の集団などが続きます。
実は、同じ日に奥さんがご近所のお友達と京都に来ていて、紅葉真っ盛りの京都は大変だったらしい。東福寺に入るのに結構ならんだようです。
奈良の紅葉はまだ盛りに一歩手前なので、人出のピークも1週間程後に来るのかもしれません。
奥さんのグループ、ともかく積極的なグループで、アイデア豊富に日本中を廻っています。
御亭主の世話を半ば卒業したとはいえ、家庭の主婦であることは忘れず、皆それぞれ無理をしない範囲で行動しているみたいで、これはこれでいいのかなと思います。
自分の様に、気まぐれに行く先々で目的を変更してしまう、わがままは許されないでしょうから、単独行にならざるを得ないというところです。
法隆寺の創建、聖徳太子は31代用明天皇の皇子。
聖徳太子は父在位の代から続いていた仏教を巡る蘇我馬子と物部守屋との対立に、崇仏派の馬子に味方し、勝利する。
用明天皇の崩御後、相続争いがあるが、馬子により、33代として、太子の伯母の推古天皇が初の女帝として即位する。
太子は推古天皇の摂政に付き、その類い稀なる政治力により、「冠位十二階」、「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣を始めるなどの政治改革を行う。
601年に斑鳩宮を造営、太子は605年に斑鳩に移り、607年、宮に接した場所に父の用明天皇を初めとした代々天皇の菩提のために、法隆寺を創建した。
・・・日本書紀の時代故、年代も色々あるようですが、ここでは法隆寺で購入した本、「法隆寺」の巻末にある年表を正としました。
金堂の釈迦三尊像、薬師如来像で感激して、ワクワクしながら、百済観音堂にたどり着き、これまた、大陸的な容貌と肢体の百済観音像を拝みます。
百済観音像は出所も伝来も定かではなく、明治時代までは百済から渡来した虚空蔵菩薩と呼ばれていて、大正時代に百済観音が定着したとのこと。
結局はその由来を下に百済観音の呼称になってしまった訳ですが、奈良時代の仏像に多い、楠の一木造りで、伝来のものではないことは確からしい。
安住の地を求めて、金堂、講堂、東京国立博物館、奈良国立博物館、大宝蔵院と転々とし、大宝蔵院百済観音堂が建立され、落ちつかれたのだそうです。
というようなことは、帰ってから調べて知ったことで、日本の仏様とはとても思えない、すらっとした肢体なのに、素朴で、親しみの持てる、笑いを含んだようなお優しいお顔を暫く見上げて動けませんでした。
夢殿に向かいます。