永賞寺の手前に信長の第一次朝倉攻めの際に、敦賀で最初に陣を構えた妙顕寺があります。
「1570年4月、信長は京都を出発、湖西を北上し、熊川を経て、佐柿 国吉城に着陣。
対する朝倉勢は、敦賀郡司朝倉景恒が手勢3000を率い金ケ崎城に、また気比社家衆を含む1500騎が手筒山に籠る。
敦賀入りした信長は妙顕寺に布陣し、一気に手筒山城を攻略、朝倉勢500余が討ち死する。
大敗を喫した景恒は金ケ崎城を退城、疋壇城も開城し、信長は金ヶ崎城に入る。」(近世敦賀の夜明け」図録集)
この直後に、お市の方の両結びのお手玉で知らされたと言う浅井長政の挟撃を察知して京都に逃げ帰る ことになるわけです。
文章の中に自分の歩いた場所の名前がでてくるので面白い限りです。
妙顕寺は気比神社の学問所の気比神宮寺として創建され、日蓮宗に改宗し、妙顕寺となったのだそうです。
金ヶ崎宮に近づくと、もう店らしきものは無くなり、食事をするところはなさそうです。パン屋さんがありましたが開店していません。
まあ、もう諦めです。
結局、金ヶ崎から撤収する途中にヨーロッパ軒のすぐ近くの蕎麦屋さんでうどんをいただきました。
天満宮の社殿は空襲で焼失後、1807年建立の彦根佐和山神社の社殿を移設したものなのだそうです。彩色の木彫が鮮やかでした。
前から気になっていた、8号線の向こう側にある永厳寺に向かいます。写真の中で、遠くに見えるトンネルの上を8号線が走っています。
永厳寺は、応永20年(1413年)、永建寺三世東渓宗陽大和尚による創建とのことです。
若狭観音霊場三十三ヶ所の1番札所がここ、次に訪れる金前寺が2番になるため、2つしかない敦賀の霊場を一日で制覇・・・したことになります。
と言ってもただお参りしただけなので札所を廻ったことにはならないのでしょう。
境内の鐘楼に収められた鐘は敦賀の豪商、打它宗貞(うた むねさだ)の死後、1643年に宗貞の妻により鋳造され、時を告げる鐘として使用されたものとのこと。
鐘は宗貞の菩提寺である永厳寺に移されましたが鐘楼は焼失し、現在ある鐘楼は近年に再建されたとのこと。
打它宗貞については前出図録集でメモが記載されています。
概要は以下の通りです。一部飛騨の歴史発見を参照させていただきました。
「打它宗貞は、大野城を築き上げ、飛騨高山に移封となった金森長近に仕え、高山では自分の開拓した銀山の奉行を務め、当時は茂住宗貞と称した。
宗貞は金森家五代藩主頼業に疎んじられ、長近の死により、庇護者を失うと、高山から逃れ、敦賀にたどり着きます。
宗貞の居なくなった銀山は、廃れて廃鉱となったのだそうです。
敦賀においては姓を打它と改め、米宿(米の仲介人ということ?)を始めとして、商人としての頭角を現し、小浜の歴代藩主、京極氏、酒井氏から敦賀群代官に任じられるに至ります。
京都まで商売を広げたようで、子供の打它公軌(糸屋十兵衛)は若くして引退しますが、文人として名を成した。
俗謡『京の三条の糸屋の娘、姉は十六、妹は十四、諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は眼で殺す』に唄われる糸屋は打它家のことを指すと考えられる。」
残念ながら戦災に遭い、打它家の史料は焼失し、詳しいことは判らないのだそうです。
と、ここまで書いて気が付いたのですが前々回に書いた酒屋さんの「ウタ」は宗貞の系譜のお宅なのではないか・・・?今度行ったら、ご主人に聞いて見ようと思います。
永厳寺から、さらに金ヶ崎に向かうと手前に若狭観音霊場の2番目の札所、金前寺が有ります。
寺の縁起によると・・天平8年(736年)聖武天皇の勅により、泰澄大師が十一面観音坐像を刻み、本尊として寺を建て、天皇親筆による金光明経を金櫃に封じて丘陵に埋めたことにより金ヶ崎と名づけられ、寺名を金前寺と号した。
811年に弘法大師が訪れ、真言宗のお寺となる。
信長の手筒山攻撃の時に焼失、その後打它宗貞等により、現在の地に観音堂が建てられましたが、その後、戦災に遭い、現在のお堂は昭和の代に再建されたものとのことです。
金前寺の脇に芭蕉の句碑が・・・傍らに芭蕉の説明板があり、敦賀で読んだ全10句が記載されています。金ヶ崎で読んだ句は「月いづこ 鐘は沈める うみのそこ」だそうです。
延元の戦いで新田義貞が金ヶ崎に敗れた時に、陣鐘を海に沈めたという史実を聞いて読んだ句ということです。
それにしても芭蕉は敦賀で見る月を楽しみにしていたのだそうですが月を詠んだ句が多いことに驚きます。
句碑の傍にカモが飼われていました。
敦賀港駅(金崎駅)の名残のランプ小屋を見てようやく金崎宮に到着です。
計画では手筒を越えて中池見まで行くつもりでしたが、手筒はちょっと登る気にならず、そのまま帰ることに・・・
うどんを食べて帰る道すがら、蓮如さんが御入輿されたという碑が建っている真宗 高徳寺に寄ります。高徳寺は明応9年(1500)、祐怡の開基と伝えられます。
建物は全てガラス張りで覆われていて、全貌が見えませんが、古来の真宗のお寺様式をよく表す建物なのだそうです。
三の丸の趾を通り帰宅。今回は歩き通しました。
【追記1】宗貞の肖像画を敦賀博物館「近世敦賀の夜明け」図録集からお借りして追加しました。
【追記2】「うた むねさだ」と振り仮名を振りながら「宗貞」であるべきところ「貞宗」と記載していました。修正させていただきます。
【追記3】「ウタ」のご主人から、頼んでいたお酒が入手できたとの電話をいただいたついでに、宗貞のことをお尋ねしました。
「姓は確かに同じで関連はあるとは思うのですが、宗貞の子孫であるという確かな証 明は当家にはありません。
敦賀には打它家が10軒程度あり、彦次郎さんと言う宗貞の 御子孫に当たる方が居られます。」
ということでした。