9月15日は大谷吉継の命日にあたります。
昨年、9月13日に永賞寺で執り行われた大谷吉継の供養祭に参加しました。今年も、と思いましたが、調べても開催日が判りませんでした。
敦賀遊敦塾で9月19日に大谷吉継を偲ぶツアーが計画されているようです。
昨年は供養祭に合わせて実施されていたようなので、この日に違いないと、勝手に決めて敦賀歩きにでかけます。(大違いでしたが・・・)
この一週間は仕事で待機状態で遠くに行けないので、敦賀市内を歩いていて、呼び出しに応じられるようにする、ということもあります。
気温は高いけど秋晴れの空がきれいな一日でした。前回、8月の猛暑の時に敦賀歩きをしてダウンして中断したので今日はがんばろうっと・・・
近所にできたステーキ屋さん、アトムグループの一員ということですが、茨城県にも同じお店がありました。
アトムグループは福井エリアのフランチャイズということなのでしょうか?
殺風景そのものの敦賀の町も少し色が付いてきた?
途中大幅にはしょって、酒屋の家根谷酒舗さん。時々、上品なお女将さんに御宮に収めるお酒の熨斗を書いていただきにきます。
後で出てくるウタと合わせて「くまじい」御用達の酒屋さんです。
と言って利用頻度は近所の「リカーショップ華」が一番多いのですが・・・
黒龍と梵はウタ、花垣は華が豊富です。家根谷さんは品揃えは一般的な感じですが、黒龍も置いています。
家根谷さんの向いにある焼き立てパンの「カンパーニュ」。
自分のお客さんの購買部にパンを納めているお店です。毎朝、仕事に向かう時にお客さんに納品した親父さんの運転する車が逆方向に走ってくるのとすれ違います。
パンも美味しいけど、プチオニギリ弁当もグッドです。結構人気もあるみたいですが、駐車場がないので、店前の道路に車が2,3台並んでいるのを見かけます。
笙の川を渡り、八幡神社に到着します。
八幡神社は敦賀城の敷地内にあり、大谷吉継に深く信心され、その後の歴代の支配者にも庇護を受けてきた神社で、昭和の代に県社となったそうです。(神社探訪)
神社探訪は知りたい神社のことはまず載っている脅威のホームページですが、狛犬のことも詳細に調べておられ、八幡神社の項では「境内の狛犬の数が23を数える。おそらく、一社では最高の数だろう。」
と記載しており、狛犬の紹介のなかで、年代不詳の笏谷石狛犬の記載があります。
笏谷石に関して、敦賀市博物館の平成22年度特別展「近世敦賀の幕開け」図録集に下記の説明があります。
「笏谷石は足羽山を産地とする緑色凝灰岩で古墳時代から石棺などとして用いられ、中世からは石塔、石仏として多用されるようになる。
朝倉氏の庇護の下、天台宗真盛派寺院の造仏、造塔活動が盛んになり、一乗谷朝倉遺跡から1700例の笏谷石製品の石仏、石塔が出土している。
笏谷石製の石仏、石塔は越前国内の武生、大野にも認められており、さらに、敦賀の疋田定廣院(天台宗真盛派)にも石仏群33体がある。
定廣院石仏群は一乗谷の作例と共通している点が多いことから、一乗谷から石仏が供給されていたものと推定され、朝倉文化が広く、越前国南端の敦賀まで及んでいたものと考えられる。」
・・・定廣院の石仏群と言うのは知りませんでした。行ってみなくっちゃ・・・
八幡神社の笏谷石狛犬もまた、朝倉文化の敦賀への伝播を示すものなのでしょうか?
神社の奥に進むと末社が並び、その前にある大きな燈籠の脇に「奉納 大谷刑部吉継」の碑が立っています。
当社にはその他にも吉継寄贈の木彫龍、吉継手植えとされている山紅葉などがあるそうですが、確認しませんでした。次回神社でお話を聞こうと思います。
信長が八幡神社に寄進したとされている太刀もあり、これは博物館に展示されていました。
神社を出て、歩いて行くと時々お酒を買いに行くウタがあります。昨年末に今年の忘年会用の「仁左衛門」と「しずく」を予約してあります。
ウタの御主人によると黒龍の銘酒を確実に入手するためには1年前の予約が必要とのことでした。
以前、「石田屋」を皆で飲んだ時に、全員声無し・・・感激しているというより、何と表現していいかわからないというところ。
水みたいに飲めてしまって、あっけないという感じだったみたいです。
ということで「石田屋」は今回パスしました。
校舎改築に当たって校庭の遺跡発掘を実施した西小学校。幻の敦賀城の存在が確認できたそうです。
末尾に註書きとして発掘時の福井新聞の記事をお借りして載せました。
下図は敦賀の市報に乗っていた今回明らかになったグランド下の概要です。
江戸時代に2度の洪水を経験したりして、年代を経て堆積物が上に被り、グランドの2m下に敦賀城の礎石と考えられるものが出てきたと言う事のようです。
発掘した敦賀城の礎石は掘り出され、跡は埋め戻されるとのこと。
校舎は予定通り改築され、今後の発掘予定はないとのことです。
西小学校から旧笙の川沿いに歩きます。旧笙の川の両側に幾つかのお店や会社があって、対岸のお店等の入り口の前には橋が渡してあります。
雰囲気が有って好きなエリアです。
後述の敦賀城域想定図に足軽屋敷と記載されているあたりだと思いますが、豆腐料理の「豆千香」があります。
以前入りましたが、雰囲気も、味も良いし、豆腐の味噌漬けなど他では食べられないものもあり、好きなお店の一つですが、飲みに行く、と言う時にはちょっと違う感じがして、候補として口に出しにくく、なかなかいけません。
さらに歩くと敦賀城の北端のお堀跡と考えられる疏水に出ます。
旧お堀沿いに歩くと敦賀城址の北西角にあたる真宗大谷派の真願寺があり、境内に敦賀城の礎石が残っています。
帰りに通った道端の民家の庭先みたいなところにぽツンと標示が立っている敦賀城三ノ丸趾が南東側の境界になるようです。
こうして歩いてみるとお城のエリアは余り大きくないなと言う気がします。
福井新聞に記載されていた敦賀城の想定域です。
敦賀城は賤が岳の戦いの後に敦賀を与えられた蜂屋頼隆が金ヶ崎城、花城山城の替わりに旧笙の川の西岸に築城。
頼隆の死後、大谷吉継が敦賀を領することとなり、拡充、完成されたということです。
どういうお城だったのかは資料が全く無く、詳細はわからないようです。
前出の博物館の図録集によると「梁瀬、姉川合戦図」に敦賀城らしき絵が入っており、こういう形をしていたのでは、というくらいで、絵の真偽も定かではないようです。
真願寺からお堀の対岸に渡り、海岸を目指します。新旧の建物が入り混じります。
敦賀観光ホテル前の須崎の高燈籠・・・江戸時代に燈台としての機能を果たしていたとのことです。
旧笙の川の河口に多くの船が繋がれています。対岸に魚市場と敦賀大橋が見えます。のんびりと釣りをしている人がちらほら・・・散策コースにとしては絶好の雰囲気だと思います。
ようやく博物館のある相生に入るところで続くです。
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註:【福井新聞記事】<写真修正しました。10.12.16>
敦賀西小校庭で出土 大谷吉継整備説<2010年3月20日掲載>
『敦賀市教委は3月19日、同市結城町の敦賀西小校庭から戦国武将・大谷吉継が拡張、整備したとの伝承がある敦賀城の建物の一部とみられる礎石が見つかった、と発表した。
敦賀城郭の痕跡が発見されたのは初めて。礎石が見つかった同じ土層からは複数の瓦が出土していることから、当時勢力のあった武士たちが出入りしていた建物の礎石とみられている。
市教委では「敦賀城はどこにあったか詳しく解明されておらず、謎に包まれた城。今回の出土で場所を特定する糸口が見つかった。貴重な史料」と価値を強調している。
校庭東側の縦約5・5メートル、横約7・5メートルの範囲を深さ約2メートル掘ったところ、建物の柱の基礎となる礎石が20個以上出土した。建物の外周部の礎石とみられ、最大で直径60センチ近いものもあった。
敦賀郡史によると、敦賀城は現在の結城町と三島町1丁目にまたがり、南北約500メートル、東西約300メートルの範囲にわたり、敦賀西小はこのエリア内に位置している。
敦賀城は1583年から33年間しか存在しなく文献でしか分からなかった「幻の城」。
積み重なる土層から礎石は戦国時代末期のものとみられ、城が存在した時期と合致した。
敦賀城は1583年に領主となった蜂屋頼隆が現在の同市花城地区から移転、築城した。
1589年に領主となった大谷吉継が拡張整備したとの伝承が残っている。吉継は1600年の関ケ原の戦いで、西軍豊臣方の将として戦ったが敗れて42歳で自刃した。
1615年に徳川幕府が出した一国一城令により、翌16年に敦賀城は取り壊された。
敦賀市教委の中野拓郎学芸員は「石垣や天守閣のものではない。これまで伝承しかなかった敦賀城の痕跡が見つかったことで、このエリアを約2メートル掘れば何か別のものが出てくるかもしれない」と期待を込める。
気比史学会の糀谷好晃会長も「文献でしか分からなかった幻の城が表に出た意義は大きい。礎石の地層の位置が確認され、今後の発掘につながる」と話している。
耐震診断の結果を受けた新校舎への建て替えの一環で、昨年11月から建設予定地の試掘調査を進めていた。敦賀城のものとみられる礎石は掘り出して保存する。校庭は本年度内に埋め戻し、今後の調査の予定はない。