平安神宮神苑

平安神宮
平安神宮 2015.12.12

遅ればせながら、前回の大将軍神社(三条大橋東)の説明を・・・

上記サイトの他に詳細な資料が見つかりませんでしたので、神社の立て札の内容をお借りします。

桓武天皇が平安京を造営した時に、大内裏鎮護のために、四方四隅に大将軍神社を祀った。

自分がお詣りした神社はそのうちの東南隅にあたる神社であり、素戔嗚命を主神としており、相殿に関白藤原兼家を祀るとあります。

境内に東三条社の名を冠した小さな社がありました。

藤原兼家は平安時代中期に権勢を誇り、摂政関白の地位を高め、東三条大入道と呼ばれたのだそうです。

応仁の乱で焼失したその兼家邸がここにあったことをとどめているとのことです。

平安神宮神苑センリョウ
平安神宮神苑センリョウ

って、前回スペースがなくなったので、ここで補足してしまいましたが、銀杏の黄色が鮮やかな神社でした。

Wikipediaで大将軍神社を検索すると、ここではなく、北区の北方鎮護の大将軍神社の記述がでていて、さらにはネットを繰っていって、北野天満宮の隣に大将軍八神社という神社があることを知りました。

大将軍八神社のサイトに行くと、素戔嗚命の御子五男三女の八神という記載があります。

四方、四隅の八カ所に各八神の御子が配置されたということなのでしょうか・・・蛇足ながら、四隅は東南、北東、北西、西南の角を表すのだと思います。

このブログを書く様になって、方位の守りとしての青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)の四神を勉強しました。

さらに仏像の世界で、持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)、多聞天(北方)の四天王などという言葉に大分なじみがでてきていました。

神苑マンリョウ
神苑マンリョウ センリョウより実り多く、下に垂れるのだと・・・

ここに至って、さらに四方、四隅の八大将軍かよと。

一つを知ると繋がりでさらに知りたいことが、新しく出てくる、チェーンリアクション、頭が痛くなる・・・

まあ、アレも知りたい、ココにも行きたいとあがいていますが、人生の分岐点の中でヤムを得ず諦めるという時は何回かありました。

それから考えれば、もっと気楽に考えて、目をつぶっていかないと時間が足りなくなるなと。・・・って、なにを深刻な話をしているのだろう・・・

結構大将軍神社で時間を使って、写真を撮りまくり、ようやく平安神宮を目指します。

途中、さらに、秀吉がお詣りして、願いが叶えられて満足したという、満足稲荷神社にお詣り。

平安神宮神苑
平安神宮神苑

どうも秀吉はお稲荷さんに思い入れがあり、伏見城に伏見稲荷大社の祭神を勧請したというこ記載がありますが、その伏見城の稲荷神社との関連は明確ではありません。

赤穂義士、吉田忠左衛門、沢右衛門および貝賀弥左衛門夫妻らの菩提寺という本妙寺があります。

中を覗きますが、なにやら12月14日を前にしての義士祭の準備で忙しいようで、相手をしてくれる人が見当たらず、諦めて外にでました。

京都市美術館「フェルメールとレンブラント」展を横目に見て、今日は歩きの気分と通り過ぎます。

神苑の紅葉はほとんど終わっていましたが、時々射す陽射しの中で、残り少ない紅葉が輝いていました。

平安神宮神苑
平安神宮神苑

花はほとんど無く、人の影もまばらです。

平安神宮は平安京を築いた桓武天皇を祭神として、平安遷都1100年、明治28年に創建、皇紀2600年、昭和15年に平安京最後の孝明天皇を併せ祀り、今に至るのだそうです。

創建は東京遷都で荒廃した京都を復興させようと言う熱意の中で進められたのだそうで、平安神宮のホームページに行くと、建設中の写真が載っています。

今の優雅で華やかな姿を想像出来ないような荒れ地に骨組みが建っている写真が面白いです。

大政奉還が1867年で平安神宮創建が1895年、印象派を産んだ変革の波、パリ大改造を進めた、ジョルジュ・オスマンのセーヌ県知事就任が1853年~1870年。

平安神宮神苑
平安神宮神苑

10年~20年くらいのずれはありますが、かなり近い時期に両国の文化に磨かれた代表格的なパリと京都が生まれ変わって、新たな価値を生み出そうとしていたというのが面白いと思います。

それにしても1000年の歴史と神仏の力の加護もなく、むしろ神の呪縛から離れ、歴史に逆らって革命を起こした印象派の画家達の偉業は賞賛すべき・・・ってまた話が変な方向に行ってしまいました。

 

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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