8月13日の続きです。
龍双ヶ滝でたっぷり涼風を味わい、宝慶寺に向います。
龍双ヶ滝から先に行くと「稗田の里」があります。古い集落があった跡地らしい。
稗田の里を過ぎると道路が狭くなり、曲がりくねります。向こうから車が来ない様に祈りつつ、先を急ぎます。少し道らしくなってきて、暫く行くと宝慶寺にでました。
薦福山寶慶寺は寂円が開いた曹洞宗のお寺、現在は永平寺に次ぐ第2道場とされています。
前にも記載しましたが(「永平寺0129」)、このお寺の事は司馬遼太郎の「街道をゆく」の『越前の諸道』で知りました。
作者の司馬遼太郎は挿絵画家の須田剋太画伯と共に福井県を訪れるのですが、福井県の最初の訪問地として、永平寺の喧騒を嫌い、宝慶寺に向います。
須田画伯は道元のひたむきな求道の姿勢に心酔していて、永平寺の華美に戸惑い、永平寺の拝観に躊躇する様子が描かれていて、面白いのです。
道元(1200~53年)は比叡山、三井寺で学び、さらに臨済宗栄西に師事します。
栄西の没後、日本での修行に飽き足らず、中国に渡って、修行を積もうと師を探し求め、苦労の末、当時の中国随一の名僧如浄(1160~1227年)に師事、悟りを得て、日本に戻り、永平寺を開設します。
寂円(1207~99年)は南宋洛陽市に生まれ、浙江省寧波市の天童寺で、道元と同じ時期に如浄に師事、如浄の没後、道元が帰国すると、彼を慕って来日します。
道元に師事し、宇治の興聖寺、越前の永平寺へと、道元のもとで修道に励み、道元の精神の純粋な継承者としての実践の場として、宝慶寺を開基することになります。
寂円は道元没後も永平寺にとどまりますが、大伽藍主義に走る永平寺の方向に関わらず、1261年、55歳のときに、現在の大野市銀杏峰の麓に移り、石の上に座禅すること18年という修行を重ねます。
寂円の生き方は「ひたすらに座禅をしろ」という道元の”只管打坐“の教えを忠実に行ったもので、この荒行はその姿を恐れて誰も近づく者がいなかったほど厳しいものだったとされます。
大野盆地南部の地頭であった伊自良知成は狩猟に出た時に、一人、座禅を続ける寂円の姿を見て、深く帰依尊信の念を起こします。
伊自良知成は寂円の戒を受け、一宇を建立して宝慶寺と名付けて寄進し、寂円に請して開山と仰ぎます。
その後、伊自良知成の一族により七堂伽藍が建設されて行きます。
寂円の著書はほとんど知られてないそうですが、その厳しい教えの門下から永平寺を立て直した第5世義雲や総持寺開山の瑩山など優秀な弟子が多数輩出します。
螢山は永平寺の路線闘争に敗れ、加賀に大乗寺を開いた永平寺第3世義介の後継者となります。
祈祷、儀式などをとりいれて、大衆を惹きつけ、その勢力を広げて総持寺を始めとした多くのお寺を開山します。
螢山は、衰退した永平寺を含めた曹洞宗全体を隆盛に導きます。道元が高祖と呼ばれるのに伍して太祖と呼ばれるのだそうです。
道元の「只管打座」の教えをひたすら守り続けた寂円と曹洞宗を大衆に向けて開いて行った螢山は方向が180°異なる道を進んだ感じで、寂円の弟子であるというのは意外な感じがします。
義雲は寂円の跡を継いで、宝慶寺の第2世になりますが、当時、永平寺は路線争いによる争乱の影響で寺内が荒れるままになり、道元の表した大著「正法眼蔵」も散逸し衰微を極めることになります。
義雲は、請われて永平寺の第5世に就き、荒んだ伽藍を修復し、散逸した「正法眼蔵」を集めて、今ある姿に編纂し、永平寺の再興に大きな力を発揮します。
永平寺の山門の前に義雲が植えた杉は、五代杉と呼ばれているのだそうです。また、宝慶寺には義雲が植えたとされる杉の樹が大野市の天然記念物に指定されています。
山門をくぐり、境内に入りますが、どなたもおられないので、勝手に本堂(法堂)から上がらせていただき、お参りさせていただきます。
僧堂にたどり着くと、他の拝観者を案内していたお坊さんがおられました。
我々が現れるとその方達は退出し、入れ替わりに我々が色々説明していただくことになります。
前の人達は説明してくれるお坊さんが話好きで、話が切れることがないため、帰るタイミングを計っていたような感じでした。
こちらとしては色々お話いただくのは願ってもないことで、心行くまで説明いただきます。まあ、記憶力が薄れていて、話を半分も覚えていないのが難点ですが・・・
曹洞宗の第2道場という言葉で永平寺と宝慶寺となにか関係があるのかと思いました。
永平寺も宝慶寺も、それぞれ関わりなく修行僧を受け入れ、独自に修行をしているということで、第2道場の語が持つ意味は特にないようです。
永平寺に行った時に、雪の降る山門の前で入門を請うて、永平寺の僧と問答している若い僧達のビデオが流れていたのを思い出します。
お坊さんの説明では「まあ、多分に儀式的なもので、宝慶寺でも同じ様な入門時の問答はします。」とのことでした。
僧達は全て、この僧堂で寝起きし、座禅もここでするのだそうです。別棟に部屋はあるのだそうですが、そこは一時的に過ごすだけで、生活の大部分はこちらの僧堂で過ごすのだそうです。
こんな狭い所に多くの僧が就寝、修行を積んでいるのかと、その厳しさが伝わってきます。
永平寺に行くと僧達がお勤めをしている姿はよく拝見しますが、僧の生活は表に出ておらず、見えてきません。
ここでは全てが解放され、撮影もOKということで、僧達の生活と修行の場を肌で感じることができる感じがします。
寂円と義雲の墓がこの写真の左手の方にあったようですが、うかつにも気が付かずに通り過ぎてしまったようでした。
信長が「宗教」と激しくぶつかった天正の乱の時に宝慶寺は焼失しますが、織田信長の甥にあたる織田信益(Wikipediaでは津田姓となっています)、およびその嫡男、信勝により再建されます。
織田信益は信長に終始抵抗した犬山城主、織田信清(信長の従兄弟)と信長の妹(市の姉)の綱との間に生まれます。
父と信長の確執がありながら、父の没後、信長に許され、(それでも織田姓は許されず、津田を名乗ったということなのか?)信長の配下となり、本能の変後、秀吉、家康に仕えます。
晩年、福井藩結城秀康に仕え、娘奈和子は秀康の側室となり、大野藩主となる六男松平直良を生むことになります。
お坊さんの説明を聞いていてちょっと意外な感じがしたのは、「寂円禅師は道元の兄弟弟子」という言い方でした。同じ師に教えを請うたのですから、兄弟弟子には変わりはないなと。
ただし、自分は「街道をゆく」から入っているので、寂円は道元を慕って、来日し、ひたすら道元を敬愛して師事して修行に邁進。
道元没後、道元の精神を只一人、守り通したひたむきな道元の弟子にあたる僧、という印象があります。
「兄弟弟子」の言葉には道元と寂円が同格であるとの意がにじむのかもしれません。
でも、自分には寂円が道元の兄弟弟子という括りよりは、道元の思想を受け継ぐ弟子、ということの方がしっくりきて、またそれが寂円を貶めることにはならないと思うのですが・・・
説明していただいていた方はやさしいお坊さんで、きっと怒られることは無かったと思うのでその点を訊いてみるべきだった、と今後悔しています。
焼失を繰り返した、宝慶寺の建物群は歴史的な価値のあるものではないのかもしれません。
しかしながら、この奥深い山中で、確固たる精神世界に裏付けられた山門、法堂、僧堂等の建造物達とその集合体はそこに佇む自分を大きく圧倒する存在感がある・・・ように思われました。
中世以来、宝慶寺の周りに門前村として続いていた宝慶寺の里の庄屋を勤めたのが橋本家。
山門の近くにある橋本家の住宅は江戸時代中期に建てられたもので、重文に指定され、大野市により宝慶寺山内に移設されたのだそうです。
お願いすれば中を見ることができたみたいですが、時間も 遅くなっていたため、まあいいかと帰路につくことに・・・
来た道を帰る気にはなれず、大野市街に抜けて高速で敦賀に戻りました。
下記を参考にさせていただきました。
つらつら日暮らしWiki
Wikipedia「宝慶寺」「寂円」「津田信益」
司馬遼太郎「街道をゆく『越前の諸道』」
宝慶寺リーフレット