東大寺大仏殿

華厳宗大本山、東大寺(金光明四天王護国之寺)、第45代聖武天皇が亡くなった光明皇后との間の皇子の菩提のために春日山の麓に建立した山房が起源。

後に東大寺として整備され、開山は良弁、本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。

華厳宗の本尊、盧舎那仏はサンスクリット語「ヴァイローチャナ・ブッダ」、意味は「太陽の輝きの仏」。

実体である釈迦を超えた存在で、その智彗の光は、すべての衆生を照らし、衆生を悟りに導く。

また、真言宗の本尊である大日如来と同意。真言宗においては大日如来が密教の教主であり、釈迦如来が顕教の教主とされる。

ただし、天台宗では釈迦と大日如来は同一の存在としているのだそうです。

遠敷明神の記事(わかさはいかい:遠敷鵜の瀬・神宮寺)で下記の記事を書きました。

東大寺開山良弁は小浜の生まれであり、幼少の時に鷲に掠われて、東大寺の前身である金鐘寺にいた著名な高僧、義淵に師事したという説明が鵜の瀬に記載されている。

調べてみると、鷲が連れて行ったのではなく、若狭神宮寺の開祖、滑元(和朝臣赤麻呂)が、幼少の頃から才能の際だっていた良弁を、義淵に預けたという話もある様です。

娘の手術の時に、伊勢原市大山寺をお詣りし、同寺が良弁の開山であること、良弁が相模出身であることを知りました。

良弁の金鐘寺への訪れ方のみで無く、出生の地からして異論があり、混乱しますが、奈良時代の話故、確かな文書も残っておらず、詳細に確認することは難しいのでしょう。

良弁は東大寺建立を進める中で、遠敷神宮寺で修行していた弟子の実忠を呼び寄せます。

実忠は二月堂修二会の創始者と言われており、「お水送り」、「お水取り」の話に繋がって行くのだと思います。

遠敷と二月堂を水脈が繋がっているという話からは、自分の中で色々な想像が広がって行き、ワクワクします。

大仏の鋳造は天平19年(747年)から始められる。同時期に「東大寺」の寺号が用いられるようになった。

大仏は銅の鋳造製、表面に金メッキが施されており、金メッキに使用する水銀で多くの工人が命を落としたのだそうです。

天平勝宝4年(752年)大仏の鋳造が終了し、大仏開眼会を挙行、その後、大仏殿の建設工事が始められ、天平宝字2年(758年)竣工した。

東大寺は金堂の大仏殿を中心とし、東西2つの七重塔を含む大伽藍が整備された。

大仏殿は中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失し、大仏も台座など一部を除いて、後世に修復されたものである。

現存する大仏殿は18世紀初頭、元禄時代の再建で、柱材が入手出来ず、創建当時の堂は間口86mだったのに比べて、間口が3分の2に縮小されているのだそうです。

お詣りしている間に5時の閉門時間になります。

撮影会の後のお詣りで、広大な東大寺のほんの入り口をお詣りしただけで、終わりとなりました。

明日は斑鳩を歩き、明後日に、東大寺と周辺を巡り、最後に興福寺の阿修羅像で締めくくろうと。

 

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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