今年最初の観察会は山梨五社初詣巡り。四街道自然同好会の恒例行事で、毎年実施されるようです。日にちの選定に意味があるかどうかはわからないのですが、今年は松の内最後の1月7日(月)です。
松が明けるといっても、いまだ お屠気分でいられるのは我々みたいに仕事を離れた人間だけで、4日から仕事している人たちが多く、 世間はとっくに明けているというところでしょう。

年始めということで、歴代の会長さんがお見えになる、普段なかなか参加できない方も皆さんの顔見せにくるなど、様々な理由があるのかと思いますが、44名の参加があったということでした。
普段の観察会は30名前後ですから、正月早々の熱気、たいしたものです。

初代会長、市川先生のご挨拶から始まります。
以前、観察会でお話をうかがった四街道を知り尽くした男として有名な小沢さんという方を初代と、思っていましたが、小沢さんは2代目なのだそうです。

初代会長、90歳を超えられるお歳ということですが、30年前に四街道に越してこられて、この会を立ち上げ、20年間会長として、指導されてきたのだそうです。
今同好会の会員は180名程度ですが、一時期、480人に達するまで育て上げられたのだそうで、まあ行事の仕切りも大変だったろうと思います。

会員の平均年齢もきっといまより少なくとも10歳くらいは若かったのだろうし、会員達のエネルギーも十分で面白かったのだと思います。
しかし、ほとばしる情熱も年とともに治まりつつあり、また、大勢の人が単一のベクトルで、進み続けるのことのむずかしさからということか会を去る人もあり、現在の規模に落ち着いたということらしい。

会は離れたけど、また同じような活動をしている人達もおられて、市川先生の蒔いた種はあちこちで開花しているということなのでしょう。
市川先生はお歳のせいもあり、日頃の観察会ではお見かけすることはありませんが、こういう機会に顔を見せていただけるということのようです。

他の会員達のうれしそうかお顔を観ていると、いまだに、皆さんに慕われておられるという様子が感じられました。
先生のご挨拶は「花の名前なんか知らなくていいんだ、自然を愛する気持ちの人たちが集まることが大事なんだ」とお優しい挨拶で、さすが、という感じです。

今日、1月7日は、七草がゆを食す、ということのようですが、知識はあったも、粥よりはお酒という方なので、縁がありません。
1月7日は「人日の節句」という五節句の一つで、そのご祝儀の料理が七草がゆ、ということが起源らしい。

節句は 、中国の陰陽五行説に由来、季節季節の節目に、無病息災、豊作、子孫繁栄などを願い、お供え物をして邪気を祓う行事で「節供」ともいうと。
節供そのものはその季節の変わり目に神捧げる食物を表す言葉、ということです。
オオイタチシダ
オオイタチシダ
オオイタチシダ
節句は 、中国より平安時代に日本に伝来して宮廷の行事などに定着、江戸時代にその節句のうち五節句を式日として定め、休日に指定され、世間にも広まっていったと。
宮廷においては、節句にご祝儀料理を食す節会(せちえ)が行われており、それぞれ決められた節句料理がある。

五節句は下記に示すもので、【】内はその節句料理を表す。
・人日(1月7日):七草の節句【七草がゆ】
・上巳(3月3日):桃の節句、ひな祭り【菱餅、白酒】
・端午(5月5日):菖蒲の節句【関東:柏餅、関西:ちまき】
・七夕(7月7日):七夕【素麺】
・重陽(9月9日) :菊の節句【菊を浮かべた酒】

節句は奇数月の数字が揃う日に定められていることがわかるが、1月1日は特異的に重要な日とされ、1月のみかさならない7日を節句としたということのようです。
ちなみにお正月の「おせち」は節会の料理ということが起源ということです。

中国の慣例では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さない、とされている。
7日目は人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないということであったらしい。
浅間神社
浅間神社
人日の節句には、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの=吸い物)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって、お粥に七草をいれる七草がゆとなったのだそうです。

前記したように、古来宮廷の行事であった、 人日を含む五節句が、江戸時代に幕府の公式行事となり、将軍以下、全ての武士が節句を祝うようになえり、休日に指定され 、一般社会にも定着していった。

人日の節句には七種粥を食べて人日の節句を祝うようになったということですが、おせちとお屠蘇に疲れた胃を休めるという意味合いもあり広まったのでしょう。
今日の神社五社巡りは浅間神社→御岳神社→香取神社→天御中主神社(妙見神社)→豊受大神社を巡ります。

顔見せと五社初詣が主体で、貪欲に花や、動物を求めていく普段の観察会で感じられる執念は若干希薄な感じで進行します。

家の角や辻に割り箸位の木に四手(垂)状の白い紙が付いた御幣(ごへい)が差し込んであり、このあたりでは「くれまもり」が変じて、「クレマブリ」と呼ぶのだそうです。

広辞苑によると「まぶり(守・護)」「まもり」に同じとある。「まもり」(守)、守札「神仏の霊がこもり、人を加護するという札」と書かれていると。
センニンソウ 葉の色が変わりつつあるセンニンソウ
麻賀多神社にいただいた御幣を大晦日に立てて、1年間の悪しきこと 、怨霊、罪などを祓うために行われる を祓う風習で、地域により呼び名は異なり、 千葉市の稲毛地区などでは「晦日みそか)祓い(はらい)」と呼んでいると。

上記の説明は前記した2代目会長さん。
お話を伺うと、毎日の様に、自転車で町の中を走っては、地元の人に話を聞いて回っているのだそうで、歴史書にも見られない、地元住民の伝承を拾い上げているということです。

もうお一人、自分の近所の方で、一月のうち15日は植物を求めて一人で野山を歩いている会のベテランで、会の皆さんも解らない花や樹がでてくると、「Kさーん」と声がかかる方がいるのですが・・
Kさんのすごさは、みんなに呼ばれて、にこやかに応えているかと思うと、それだけでなく、ご自分の目に付く植物を細かくメモして、オリンパスの拡大接写できるカメラで、データを蓄積する努力を怠らないことです。

このKさんと2代目会長とお二人が話しているのを聞いていて、あきれかえります。「まだ年明けて7日だけどに、俺たち、あちこちでもう3回はあってるよな」って・・・
目標定まらず、 気持ちが散っている自分は、お二人の境地までたどり着くまではまだまだだなと。

2代目会長の地元の人と語り合って、伝承話を残していくということは極めつきに大切なことと思います。なかなかの人あたりと根気がないとできないことだと思います。
香取神社に前から気になっていた石像があります。

右側は室生寺におられた如意輪観音のようで、隣のレリーフ像は風雨に削られ、お姿がわかりにくくなっています。右の像は如意輪観音、左は子安観音なのだそうです。
四街道には如意輪観音は25体、子安観音は2体、今日はお目にかかりませんでしたが、馬頭観音に至っては64体がおられるのだと。

観音菩薩は人の声(音)を(観)て、救出す。ということで、人や生物、それぞれの悩みに応じて個人個人異なった姿で助けてくれる仏様だとされる。
各世界で苦しむ人達を救うため、六道に観音と地蔵は六観音、六地蔵として配されているが、 如意輪観音は六道のうち、天道の迷える衆を救うとされる。

一般に如意輪観音の信仰が日本に入ったのは8世紀頃とされ、最初はこの石像のように2臂で片足を下ろした姿の観音像だったと言われます。
その後、9世紀に密教が日本に伝えられると、曼荼羅にあるお姿の六臂で片膝を立てた密教系の姿に造られるようになりました。六臂は天道のみならず、六道を救う手を持つのだとされている。

後世に、安産や子育て、子供の健康を祈願するための女性の集まりである毎月19日の夜に集まる十九夜講の本尊ともなっています。別名子安講とも言われました。
子安観音と並ばれていること、そういえば、女人高野として女性がお詣りできる室生寺のご本尊であることなど、女性の救いの仏様であることが納得できるような気がします。

これも大分判別しにくくなっていますが、 如意輪観音像の光背には寛保2年壬戌(みずのえいぬ)とあります。
壬戌の干支の考え方は古文書の初期に習います。

以前にも書いた様な気もしますが、10干 (甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 )と12支 (子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組合わせで歳を表し、10と12の最小公倍数60 年で繰り返していく。

古文書の記述内容である程度の幅で年代が絞れれば、 すなわち60年の幅であれば、干支により、その年の同定が可能であるのだと。 12支だけ書いて在る場合もあり判定幅は狭くなるわけですが。

この60年の繰り返しを称して「還暦」というのだと、70歳にもなって知るこの不勉強さ・・・
って、きっと、昔聞いたことがあり、すっかり忘れているということの方が正確な様な気もします・・・そういうことが多々あるので・・・

天御中主神社は元は星辰信仰の北斗山金剛受寺=現千葉神社本尊の妙見神分霊を祭神とした神社であったが、神仏分離により現社名に変更されたのだそうです。

また鎌倉期には臼井氏の係累が山無氏を名乗り、山梨城(月見里城)を構えていた。
土塁、空堀が残っているが、この地から常滑焼きの大甕が出土されており、市民ギャラリーの入り口に展示されている。

最後に訪れた豊受神社には社殿に説明書きがあり、文明11年(己亥 1479年室町時代)創建、祭神は伊勢神宮外宮の豊受皇大神であり、食物の神であるとの記述があります。

社殿は小さく、掘っ立て小屋みたいな感じですが、境内はうっそうとした森に囲まれており、独特の雰囲気があります。

「極相林」に囲まれているという説明がありました。極相林とは日陰に強い「陰樹」が支配し、樹木の変遷が観られなくなる状態を極相に達した、という言い方をするのだそうです。
「極相林」も「陰樹」も初めて聞く言葉ですが、なるほど、と言いたくなるようなぴったりの環境のような気がします。

境内にはキッコウハグマ、ヤブラン、ヤブコウジなどの地面に咲く花の他、樹の幹に黒いコケのようなもの、ヨウラクラン (瓔珞蘭)などがありました。
豊受神社で本日の工程は終了。

昨年、観察会の下見を行う担当グループに誘われ、今回の観察会の下見も昨年12月に実施しました。さらには、会計係をやれとのお話があり、これもお受けすることになりました。

自分の会社の会計ですらどんぶり勘定だったのに、本会の会計は毎月収支報告をするようで、大変そうで、破綻するかもしれません。

まあ、行けるとこまで行こうかと。とりあえず、名簿を整理しろとのご指示をいただき過去の会員のデータなどを整理、久々のExcelと格闘で疲れ果てました。