第2土曜日に仏教文化講座化、第3土曜日に読経唱和の信徒七誓会と月に2回、成田山新勝寺に参詣していることは以前に記載しています。
講座と読経の前後に、本堂にお詣りし、境内の建造物や、仏像の探索や、成田山公園を散策したり、参道散策を楽しんで、帰ります。
ある日、本堂から仁王門に降りて、仏像の写真を撮ろうと、一周して、改めて気がつきます。
裏に四天王のうちのお二人、 広目天、多聞天が居られて、表には仁王、すなわち金剛力士像の阿形、吽形がおられる、どうしてなんだろうと。
ネットで調べても、謂われは解りませんでした。
先日の七誓会の受付に居られた若い僧侶に、ご存じであれば教えてくださいとお願いしました。
ご当人は確かにおっしゃる通りで、でも何故かについては今答えられないので確認させてください。と。
急ぎませんので、次回にでも教えてくださいと、席に着きましたが、途中の休憩時間の時に、先ほどの僧侶が席まで来てくれて、「二天像を祀るというやり方があるそうです。」と。
二天像の例があると言うことはわかりましたが、何故、仁王様と二天像の組合せなのか、四天王の内、何故、広目天と多聞天なのかなど、更Qが湧いてきてしまいます。
上司に訊いていただいて得た回答なのは明かなので、更Qをして、困らせるのは申し訳ないと諦めました。
家に戻ってから再度「二天像」のキーワードでネットで調べましたが、明確なことは判りませんでした。
それでも、前に何回か参考にさせていただいたことのある「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の開設など」の中の「四天王像のお話」に関連するようなお話がありました。
このサイト、奈良で長い間ガイドをやられておられた中西 忠さんと言う方が開設されているもので、奈良のことについて、めたらやったら詳しくて、しかも、平易な言葉で綴られており、勉強になります。
自分はネットで見つけた写真を、特に断りの無いときには、本ブログで使用させていただくこともありますが、中西さんは必要な仏像図が欲しいときには、奥さんの描いた絵を使用されておられて、これも微笑ましいのです。
四天王の話の中で、二天像に関連する記載の概要は下記です。
世界の中心に須弥山があり、頂上に帝釈天が、東西南北の中腹に四天王が居られ、それぞれ持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)である。
東→南→西→北とそれぞれの頭の文字を繋げて、「地蔵買うた(じ・ぞう・こう・た」と唱えると覚えやすいと。
仏堂の中で、仏像を祀る一段床が高くなった部分を須弥山に模して須弥壇と称し、須弥山とおなじく、四天王が四方を守る。
本来であれば須弥壇の東西南北に四天王を配置するが、そうすると、増長天が仏様の前に位置して、重なってしまう。
そのため、45°ずらした西南の位置に置いたため、おのずと持国天が東南、広目天が西北、多聞天が東北に配置されることになったのだろうと。
「時代が進むにつれて、中門におられた「仁王」が南大門(新勝寺で言えば総門ということになるのかと)に移り、中門には四天王のうち二天を祀り伽藍を守らせた。
この門を「仁王門」に対し「二天門」と言う。また、二天で須弥壇を守るケースもある。
この二天には四天王の代表格である多聞天が入り、持国天と多聞天、あるいは持国天と増長天の二通りの組み合わせが多い。」
新勝寺の場合には、多くの寺院では仁王像が護っている総門には仁王像がおられず、二階に十二支の守護神である八体仏がおられます。
仁王は何故、総門におられず、中門=仁王門におられるのか?と言う問いが第一にあるべきだったのかも知れません。
以下は勝手な推測になりますが・・・
「総門」が持つ役割に成田山新勝寺の独特の考え、あるいは、なんらかの歴史的経緯からか、総門に移るべき仁王像が中門を守り続けた。
仁王像が総門に移り、とって代わって中門を守るべき二天像であったが、仁王像が居座ったため、表を仁王さんにおまかせして、双方を持国天、増長天に見立てた四天王とし、広目天、多聞天を裏に配した・・・
てなことなのだろうか。
雑誌の四天王の説明で、怒りの形相の持国天、増長天に対し、感情を抑えて、遠方を見据えておられる広目天と多聞天とあり、裏を守る二天像とし相応しいなと、親しみを覚えます。
敦賀の単身赴任を機会に、この15年ほど、寺社巡りを繰り返してきました。
成田山と同じ真言宗の室生寺金堂で釈迦立像の前で涙を流し、高月の伝教大師像、唐招提寺の鑑真和上にお会いして、仏像に心惹かれるようになり・・・
自分の心の中に、宗教がどのような形でひっかりができているのか齢70にして、いまだに迷いつつ生きる下俗の身。仏像にひかれる気持ちの根っこはなんなのか・・
なにかを知ると同時になにかを忘れていき、血肉にならずに排泄されてしまってなかなか前進せず、焦ります。
それでも諦めずに、勉強を続け、自分の心の中での平穏を求めて行きたいと思います。