大阪城の後、同僚と別れて京都駅に降ります。
以前、東山のライトアップを見に行って、夕方京都に着き、途中寄ろうと思いましたが、閉門で参拝できなかった三十三間堂を目指します。
ついでに出来るだけ周辺のお寺と、前回短い時間で楽しんだ京都博物館に行けたらと結構、欲張りな計画です。
七條大橋を渡る時にいつも笑ってしまいます。
真ん中の民家が、隣の鴨川縁のレストランに寄りかかって、ようやく生き延びているみたいで・・・
七條大橋を渡りながら鴨川を覗き込むと、段差があるところで鳥が3羽、川の中を見つめています。
閑人丸出しでしばらく眺めていると、そのうち一羽が羽を広げて飛び立ち、くちばしで川面をたたきます。
帰ってきた彼(彼女?)の口には獲物が・・・なるほど、魚が跳ねるのを待ち伏せていたのでした。
隣に居た鳥は自分では飛び込まないで図々しく、俺によこせと近寄りますが、さっさと食べられてしまいました。
大橋を渡ると「うぞうすい」の「わらじやさん」、1865年創業の京菓子の「七條甘春堂」と雰囲気満載のお店が並びます。
「七條」のない甘春堂は駅の土産で売っているようですが、「七條」が本家のようです。
ちょっと看板の危ない八ッ橋の老舗らしいお店も・・・調べてみたら、1930年創立で、おせんべいなども手がけるお店らしい。
なにか見かけにこだわらない、誠実なお店という雰囲気も漂います。
今回はようやく三十三間堂に入れることになりました。
三十三間堂(蓮華王院)は後白河上皇(法皇)が1158年、院庁として構築した法住寺殿敷地内に平清盛(の協力?)により建立されました。
その後、京都の大火で焼失、1266年に後嵯峨上皇により復元されたものだということです。
後白河上皇は鳥羽天皇の第4皇子。
1155年に77代天皇に即位しましたが、在位3年で天皇の地位を自分の子供の二条天皇に譲り、幼い天皇に対し、上皇として院政を敷いたその基盤となる場所だったということです。
後白河上皇(法皇)は上皇の地位についてから、信じられない様な濃密な人生を送った人で、Wikipedeiaでひくと、長文の説明記事が載っています。
あまりに色んな事が有って、にわか勉強で要約することは難しく、いい加減ですが・・・
後白河上皇の天皇在位期間はわずか3年ですが、その後、5代に及ぶ天皇に対し、武家との相克の波に揺られながら、34年間の院政を仕切ります。
もともと、女好きの遊び人の生活態度から、天皇としての資質を疑われ、天皇の継承路線から外れていたようですが、幼い息子、二条天皇へのつなぎとして、天皇位に就きます。
天皇在位中は兄崇徳上皇との間で争った保元の乱など内乱の続く中にあって、新制七条を定め、荘園の整理を行うなど権力の基盤を築き 上げます。
譲位した後は上皇として、平清盛を始めとする平氏の一門、木曽義仲、源頼朝、義経等の源の一門との関係を緊張を持って利用し、利用されつつ、天皇を傀儡とした、実質的なトップとして政治を掌握して行きます。
資料を読んでいると日本は既に、武家の舞台となりつつある時代背景であったのだと思いますが、清盛、木曽義仲、義経、頼朝などは、むしろ、後白河を主役とした物語の脇役の感じがしてきてしまいました。
いい加減ついでに、勝手な想像をしてしまうと・・・後白河上皇は遊び好き、女好きでいながら人間観察と人心把握が巧みで、権謀術数を駆使して、自分の目的を果たすことが出来る人・・・
天皇位を経験することにより、政治に目覚めた、あるいは天皇を中心とした政治を利用する人間達に反発し、上皇として政治に深く関わることになったということなのでしょうか?
院政を維持しつつも、愛する女との生活も大事にしていたという人間臭くて、現代的な感じの人間像が面白い感じがします。
上皇は1169年、出家して覚忠に受戒、法皇となり、行真と号します。( 浄土宗ホームページ)
後白河上皇没後、十三回忌に招請された法然は「六時礼賛」という法要を行い、写経を皆に勧めたのだそうです。それを記念した法然塔という石碑が庭に立っています。
後白河法皇は深く仏教と関わっていたようで、法然の浄土宗の他に、比叡山、三井寺(円城寺)など天台宗、東大寺大仏の再建、多くの熊野詣でなど宗派も限定されることがないようです。
宗教が未だに判らない自分にとって、この複雑さはさらに判らないことです・・・
後年、秀吉は大仏殿建設のために、方広寺を建立、法住寺殿、三十三間堂を境内として含めて、塀で囲んだのだそうです。この名残が太閤塀として今でも残っています。
桐の御紋の瓦が名残を示すのだそうです。そう言えば京都にはこの太閤塀のように、白い五本の線が入る塀が多く見られます。
前にタクシーの運転手さんに教わったのですが、門跡寺院(皇族、貴族が住職の寺院)を示す印なのだそうです。
後白河上皇に興味を惹かれて三十三間堂の中の話が後回しになりました。内部は撮影禁止なので、写真は全て購入したリーフレットの写真を使用させていただきました。
中学の修学旅行で奈良の後に京都に来て、ここも訪れています。
印象に残っているのは、千体の千手観音像しかありませんでしたが、千体千手観音、雷神、二十八部衆を拝みながら歩いて来て、お堂の中央の中尊 千手観音坐像にたどり着くと、しばらく動けず立ち尽くしてしまいました。
長谷寺の十一面観音像に比較すればお姿は小さいのですが、千体千手観音、二十八部衆、風神、雷神に囲まれて、圧倒的な存在感が目の前にあります。
御前に座ってまだしばらく 拝んでいたい気分ですが、いかんせん、通路の様なお堂のなかを次から次と多くの人が拝観にくるので、ただ立っているだけでも迷惑をかけているような気がしてきます。
それでも風神、雷神、二十八部衆を拝み、さらに中尊の前で写経の真似事もさせていただいたりして、大分時間が経ってしましました。
写経が終わり、ふとお札等を売っているなかに、「秋の新色」御朱印帳とあるではないですか。4~5種類くらいあるなかから、思わず濃い柿色と言うのでしょうかしっとりした感じのものを購入してしまいました。
御朱印を押していただき、その添え書きをする方の達筆さと書き方のリズムの良さに思わず、背筋がぞくぞくするほど感激してしまいました。
「御朱印は三十三間堂がお勧めよ!!」って訳のわからぬ言葉が浮かんできます。
御朱印は奥さんの担当と、任せていたので、他がどんな感じなのかは知らないのですが・・・
三十三間堂の隣に、旧御陵正門の碑が入り口に立っている法住寺があります。拝観は終了しており、庭を巡るのみでした。
阿弥陀如来像と並んで、法住寺稜の御前立である後白河法皇の木造と親鸞上人の蕎麦食い御真影があるとの記載がありました。
法住寺の奥に後白河法皇が眠る御陵があるようですが、閉門されています。
法住寺の隣に養源院があります。淀君が父浅井長政追善のために建立したお寺で、建立後焼失したものを妹の秀忠正室、崇源院(お江の方)が再建したものなのだそうです。
養源院の屋根にまた鳥が・・・
お寺も全て閉門し、京都博物館に射す日差しも既に暮れようとしています。結局三十三間堂だけで終わってしまいました。
それでも未練がましく、次回の為に参考にしようと、東大路通りまで歩きます。
突き当たって左側に行くと、三十三間堂の本坊、天台宗妙法院門跡があります。
法住時殿の全域を有していたお寺で、方広寺、新日吉神社も傘下にあったのですが、今は三十三間堂のみが所属しているとのことです。
妙法院と次の知積院の間に豊国廟、新日吉神社への道があります。ちょっと疲れて坂を登る気持ちが起きません。京都学園の女子高校生が下校してきます。
上り口にイタリアンのお店が・・・
重い身体を引きずって知積院まで歩きます。
表に立つ看板の説明を引用すると下記の通りです。
「真言宗知山派総本山知積院は紀州根来のお寺だったが、秀吉の焼き討ちに遭い、京都に逃れた玄宥僧正に、家康が帰依し、1601年に祥雲禅寺としてこの地を与えられた。
祥雲禅寺は秀吉が長男鶴松(捨丸)を供養するために建立したお寺であった。国宝の長谷川等伯の襖絵、名庭園がある。」とのこと。
もちろん庭園は閉まっていて入れませんでした。
講堂、金堂は新しい感じですが壮大な寺域を構成しています。誰も居ない境内をぶらぶらしているとお勤めを終えた僧侶達が本防に向かって歩いているのに遭遇します。
「後姿をお写真取らせていただきます。」と一応声をかけます。
ビックリしたのは下の写真の中で拝んでいる姿のお坊さんが可愛い若い女性でした。嬉しそうにニコニコしながら「どうぞ」と言っていただきます。
うーん、そうと知ってればいきなり前から撮ってしまえばよかった・・・
知積院の庭の紅葉が少し秋色を帯び始めているようでした。
知積院を出て、京都博物館の角にある公衆トイレで小用をして歩き出すと、もう陽が落ちて居ます。
昼間見た七条甘春堂も、わらじやもちょっと違った雰囲気をかもし出しています。甘春堂で会社のお土産を購入し駅に急ぎました。
と言いつつ、途中で道の向こうに美味しそうな焼肉屋さんが・・・
夜の京都タワー・・・
未練たらたら、京都を後にしました。