展覧会のユトリロに関する記述の記憶が定かでないので調べようと、幾つかユトリロの生涯を描いた記事を読みました。
それぞれ特徴がありますが、展覧会の説明の中のユトリロが一番悲劇的な説明になっていたように思います。(ユトリロの絵は全て絵ハガキです)
自分はユトリロの人生について全く知りませんでしたが、これほど悲惨な人生とは思いませんでした。
自分を顧みぬ母親への渇愛、そこから生ずる精神的不安定、精神的不安定を埋めようとした結果のアルコール依存症、闘病のための入院、軟禁などを一生繰り返していたようです。
展覧会の説明では、ユトリロが母および母と結婚した親友に利用され、母のくび木からのがれても、50歳を越えて迎えた歳上の妻に利用され続けた人生というようなことが書いてありました。
すなわち、ユトリロの絵が世間に認めらるようになると、母親の贅沢を支えるために商品としての絵画制作を強いられ、さらに、母親に誘導されてスポンサー的な10歳も歳上の女性との政略的(?)結婚。
母親の死後は代わりにその妻の贅沢を支えるために絵を描き続けたということです。
・・・ 会場に書かれていた説明の記憶に頼っているので、不正確です。思い込みもあるかもしれません・・・
自分のなじんでいるユトリロのくすんだ白壁とどんよりした空のパリの街の絵の多くは、初期のアルコール依存症と戦い続けた「白の時代」に属し、「色彩の時代」という色彩豊かな絵も存在するということも知りました。
絵を見ていて、感情移入できるという点で、やはり「白の時代」の絵に惹かれるものが多く、「色彩の時代」の絵は、明るすぎる感じがありました。でも、こういう絵も好きだなと思います。
ユトリロは意にそまずに、量産をせかされていたという時代なのかもしれません。風景ではなく、絵ハガキを基に絵を起こしたりすることもあったそうです。
ユトリロの絵が自分で風景を切り取ったものでないものがある・・・というのはちょっと驚きました。
それでも、周りの思惑とかかわりなく、ユトリロはその時、その時に描きたいものを描いていただけで、意に染まない絵を描かされていたということは当たらないのではないか・・・
もしかして、余りにも明るい絵は一時的にユトリロの気持ちが晴れる瞬間を表していたのではないか、などと考えながら見ていました。
絵画の技術的なこと、絵画の歴史的価値などは判らないので、トンチンカンなことを言っているのだと思います。
判らないついでに、ユトリロの風景の中に、通行人・・・特に女性が描かれているものとそうでないものがあります。
どのような違いがあるのでしょうか・・・
いずれにしろ、ユトリロの人生は自由奔放に生きた、お母さんに大きく影響され続けたようです。
幼少のころは自分を顧みず、利用価値があるときは利用しつくした母親を、それでも求め続けた印の一つに、絵のサインの最後に必ずヴァラドンのVを記していたということです。
TV東京の番組「美の巨人たち」のホームページでユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドン(本名、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン)特集のアーカイブが確認できます。
15歳の時にモデルの仕事を始め、評判となり、当時、モンマルトルに集まっていた、シャバンヌ、ルノワール、ドガやロートレックといった芸術家たちのモデルをしながらそれらの画家と奔放な関係を持ち、画家達を翻弄し続けたようです。また、音楽家のエリック・サティとも関係があったとのこと。
ルノワールのダンス3部作の左と中央のモデルがヴァラドンなのだそうです。
下はヴァラドンがルノワール等と、関係を持つことを嫉妬して旧約聖書の中の複数の男を手玉に取る女性の名前、「シュザンヌ」と呼んだロートレックのヴァラドンの絵です。
ヴァラドンはそれを逆手にとり、自分の絵画活動の名前を「シュザンヌ」としてしまったようです。
自分の思うままに男達の間を舞い、男達の気持を知りつつ弄び、男達を利用し続ける小悪魔・・・微かな昔の記憶が蘇り、ちょっと興奮して筆が走りました・・・
ロートレック、ドガ達は彼女が描くスケッチに驚嘆し、絵を描くことを奨め、シュザンヌ・ヴァラドンが誕生したのだそうです。
下はヴァラドンの描いたものですがいい絵だなと思います。ヴァラドンが男にうつつを抜かさず、金づるの息子がいなかったら、きっと良い絵をたくさん残したのではないでしょうか・・・
ちなみにユトリロは認知してくれた義理の父の名前で、実父はヴァラドンが最後まで明かさなかったそうです。彼女の周りにいた人・・・有名な画家たちがユトリロの父である可能性はかなり高いのだそうです。
下記を参考にさせていただきました。
ユトリロ展の後、東京に移動し、八重洲地下街で食事をして奥さんと別れて敦賀に向かいました。
最近、娘の結婚式、伯父の法事と帰郷する機会が多く、「ストラスブール」、「オルセー」と計画が目白押しです。こんなに美術づいた年は記憶にありません。
※ポーラ美術館所蔵の絵に同じ場所を描いたと思われる「ラ・ベル・ガブリエル」 1912年がありました。「箱根歩き」