7月22日(土)、日仏会館ホールで、「パリ万国博150周年記念」をうたったピアノと歌曲のコンサートがあり、参加させていただきました。
第1回パリ万国博は第二帝政(1852~1870年)の初期、皇帝となったナポレオン三世が国外追放されて居るときに、ロンドンで経験した第1回ロンドン万国博覧会(1851年)に刺激され計画されたのだと。
フランスでは国内規模の博覧会はそれまでも開催されていたが、国際的な博覧会としてはロンドンが初めてであった。
第1回パリ万博は1855年開催、日本も参加した第2回パリ万博は1867年に開催されたもので、150周年記念というのはこの日本が参加した年を基準にしたものです。
明治維新が1868年、ということで、その前年、1867年は日本国内は騒然としていた時期だと思うのですが、国際博覧会に出展していたというのが驚きでした。
江戸幕府から、各藩への出展の誘いがあったものの、さすがに、維新前の混乱に加えて、鎖国意識も働き、経済力のあった薩摩藩と有田焼の貿易自由化を目論む佐賀藩のみが独自に出展します。
明治維新の主役の一人であった薩摩藩としては、江戸幕府の力の衰えを、海外に知らしめ、討幕運動の正統性をアピールするという意図があったのだと。
薩摩藩は独自の広報戦略で、あたかも幕府に代わる、日本代表のようなアピールをして、幕府と軋轢を生んでいたようです。
このとき幕府の代表を徳川昭武(慶喜の弟)が務め、随員として維新後の明治の世に大活躍する渋沢栄一がいた。
渋沢はパリ万博終了後も幕府団に従い、ヨーロッパ諸国を巡り、見聞を広めて、力を蓄えるが、大政奉還による新政府に日本に召還される。
帰国後、慶喜の薦めもあり、慶喜の下を離れ、新日本政府に奉じ、度量衡の制定、国立銀行の設立などに携わるが、大久保利通、大隈重信などと対立し、野に下り、日本の産業構造の根幹をなすような、多くの企業の設立に関わっていくことになる。
渋沢がその設立に関わった企業は500を超すと言われ、また、後に、日仏会館の設立にも関わります。
以前、氷見を歩いた時に、氷見出身で、京浜工業地帯の産みの親である浅野総一郎を知り、記事にしました。(氷見ウォーキングその2)
浅野は渋沢に気に入られ、東京瓦斯など渋沢と共に立ち上げた企業も幾つかありました。
余談になりますが、浅野総一郎は、渋沢のみならず、同郷の安田善次郎などにも可愛がられ、力を借りますが、浅野が造った鶴見線の駅名に安善(安田善次郎)とつけたことをその時初めて知りました。
鶴見線はそのものズバリの浅野駅、武蔵白石(娘婿、日本鋼管社長)駅、大川(浅野の盟友)、扇町(浅野家の家紋が扇)などと、浅野総一郎鉄道とも言うべき感じであったことなど、入社当時、鶴見地区に勤務していながら、全く知ることがなく、恥ずかしい思いでした。
渋沢栄一が他の起業家達と大きく異なった一点が、渋沢財閥を形成しなかったと言うことが挙げられるのだと。維新前後の政体中心の歴史も面白いのですが、維新後の起業家というのか企業家群達の活躍と、彼らの人物像を知るというのも面白そうです。
と、脱線しましたが、日仏会館のホームページを参考にさせていただきます。
公益財団 日仏会館は、1924年(大正13年)3月7日、渋沢栄一と、駐日フランス大使ポール・クローデル等によって「日仏両国の協力によって相互の文化研究を行い、交流をはかる」ことを目的として設立された。
以来今日まで、一貫してこの目的に沿った活動を続け、1953年に日仏文化協定が締結された際には、日仏会館はその付属書において日仏文化交流の中心機関として指定された。
ということで、第2回パリ万博150周年というのは日仏会館にとっては格別に縁があるといえるようです。
今日のコンサートは、市川景之さんの解説に沿って、進められました。
1867年当時、パリで盛んに演奏されていたのではないか、という楽曲の紹介。
また、当時フランスではフォーレ、ドビュッシー、ラヴェル等の作曲家達の新しい波が起こりつつあったことのご紹介など、難しすぎてついて行けない面もあったのですが、面白かったです。
演奏終了後にこの秋公開予定の「赤い襷-富岡製糸場物語-」の予告編が上映されました。
富岡製糸場の建設地選定から関わり、建設と生糸製産工程指導などにお雇い外国人として、富岡に滞在したポールとエミリのブリュナ夫妻達と女工達の物語。
親が音楽家であったエミリは富岡にグランドピアノと共に初期のニューヨーク・スタンウェイのアップライトピアノを持ち込んでおり、昭憲皇太后(明治天皇夫人)の御行幸の際、エミリが演奏を披露したと言う話が残っている。
ブリュナ夫妻は1876年に帰国するがその際に横浜で2台のピアノを売却、オークションにかけられたが、その後の行方が分からず、探索中で、拡散して呼びかけて欲しいとのお話がありました。型番など不明のため、なかなかトレース出来ないのだと。
今日のピアノは同時代のニューヨーク・スタンウェイで、映画の中で使用されたものなのだそうです。
第二帝政時代を契機とし、オスマンによるパリ大改造が始まり、絵画ではマネ、モネ、ルノワールなどの画家達の「意識革命」が始まった、という認識はありましたが、変革の波は絵画の世界だけでなく、広く文化面での大きな変化の時期であったと言うことなのでしょう。
ロンドン、パリなどの国際博覧会を通してのジャポ二ズムの波及が印象派以降の絵画に影響を与えて行き、第3回パリ万博では、最近売り出しの渡辺省亭が日本画制作の実演をし、ドガを魅了、などと深い絆を形成していくことになります。
もし、第2回万博に日本が参加せず、またもし、渋沢栄一が随行せず、海外の世界を見聞のないまま明治を迎えていたら・・・
明治維新後の日本の進み方は大筋のストーリーは違わない物の、少しだけ色合いが違ったものになっていたのかも知れないな、と、面白いイヴェントに参加出来た喜びに包まれて恵比寿への坂道を下りました。
時刻は16時半、土曜日の17時以降、国立西洋美術館では「ル・コルヴィジエ」と「常設展」のみであれば無料で、21時まで鑑賞できると。
「マルチンボルト」は端からパスだったので、どうしようかと、悩みましたが、流れ出る汗に負けて、大人しく帰宅しました。
Wikipediaのパリ万国博、ロンドン万国博、ナポレオン三世、第二帝政などの項目の他、下記を参照させていただきました。