東京都美術館の「新印象派展」を鑑賞したのは昨年の2月。
点描というものに対して、ちょっと抵抗を持ちつつの「新印象派展」でしたが、スーラの美術史上の評価が高いことを知り、そうなのかと・・・権威に弱いくまさん、見方を改めます。
鑑賞を終えて、帰ろうとした時に、東京大学の三浦篤先生の講演会が開催されるとの館員の案内があり、もう少し知りたいということで、参加しました。
前回、触れましたが、三浦先生は「まなざしのレッスン」(東京大学出版会)の著者です。
講演を終わってからも真剣な質問が続き、睡魔に負けていた自分が周囲から浮いているような気がしてしょうがありませんでした。勉強しようと購入したのが「まなざしのレッスン②西洋近現代絵画」でした。
印象派以前の絵画には、興味がありませんでしたが、第2巻だけ持っているのも、どうも落ち着きが悪く、「①西洋伝統絵画」もアマゾンします。
そういう具合で、どちらかというと、揃えただけで終わり、読まずにいましたが、フィレンツェは関連が深そうだからと、旅行に持って行ったのですが・・・
挿絵を眺める程度で、中身にまで入ることなく、帰国してから、ようやく読み始めた次第。
宗教画や歴史画は、聖書の内容を理解しないと、絵の意味がわからない、予備知識がなければ理解できない絵は俺にとっては絵ではない、と。
「・・・レッスン」ではそういう自己流の見方を否定するものではないが、絵の内容の筋立てを知ることにより、より、絵が面白くなるという観点に立ちます。
第1章「イメージの時代」では、各論に入る前に「受胎告知」を例にあげ、絵の読み方についての説明がなされます。
ウフィツィにはレオナルド・ダ・ヴィンチの他にも幾つか「受胎告知」がありました。本の内容を把握していれば、探しまくって、カメラに収めていたとおもうのですが・・・
カメラに残っていたのはレオナルド以外ではシモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ、ロレンツォ・ディ・クレディおよびミカエル・ドリグニ(文末に追加しました)のもので、本の記述対象になっている、ボッチチェリ、バルドヴィネッティの作品は撮影していませんでした。
また、同じく本に記載がある、フィリッポ・リッピの「受胎告知」もドイツのアルテ・ピナコークの収蔵で写真はありません。(上記三点の絵をWikipediaでお借りしました。)
後日、サン・マルコ美術館でフラ・アンジェリコの著名な「受胎告知」にお目にかかり、その美しさに、感銘を受けました。ダ・ヴィンチの鮮やかで、きりりとしたマリアとは異なる、柔らかい、穏やかな印象を受けました。
「受胎告知」は『ルカによる福音書』に記載されているのだそうで、本の記述を写させていただきます。場面は神のお使いである、大天使ガブリエルがナザレの町に、ヨセフの許嫁であるマリアの下に遣わされたところです。
ちょっと戯曲風に会話を書き下ろすと以下の様になるのですが、マリアの態度を示す部分を( )で示しています。さらに( )で気持ちとしてはこういうことなのか、と、余分な言葉を追加していますが・・・
ガブリエル:おめでとう、恵まれた方マリアよ、主があなたと共におられる。
-マリアは、この言葉に戸惑い(困惑(驚き))
-この挨拶は何を意味しているのだろうと、考え込みます(思慮(思案))
ガブ :マリアよ、恐れることはない、あなたは神からめぐみをいただき、身ごもって、男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる・・・
マリア:どうして、そのようなことがありえましょうか、私は男の人を知りませんのに。(問いかけ(疑問))
ガブ :聖霊があなたに降り、いと高き方の力が貴方を包む。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる・・・
マリア:わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。(謙譲(受容))
これらの態度に対して、先生の解釈ではボッチチェリが「困惑」、リッポが「思慮」、バルドヴェネッティが「問いかけ」、フラ・アンジェリコが「謙譲」に当たると。
ダ・ヴィンチの場合は、画家の創意で「困惑」、「思慮」および「問いかけ」の3つの態度を融合した形を表したのではないか、ということなのですが、ちょっと微妙な感じがして、自分には判りません。
作者の意図が一番明確なのがフラ・アンジェリコで、まさに「謹んでお受けいたします」の図柄になっていると思います。女性蔑視になってしまうかもしれませんが・・・「女性らしい」控えめな態度。
また、ボッチチェリがそれに対して、一番、対局に居る感じで「困惑」というより、「止めてよ!」って拒絶しているように見えます。
渡辺昇一さんの「文科の時代」という本の一節がネットで確認できました。さらに、画家の立ち位置まで議論することになりますが・・・
(渡辺昇一「文科の時代」)
フラ・アンジェリコは伝統的精神性を尊ぶドミニコ派修道会の修道士であり、神に対する絶対服従を示す形でマリアの「謙譲」を描いた。
ボッチチェリはメディチ家を中心とする人文学者達の異教徒的雰囲気に浸っており、「慎んでお受けいたします」というよりは、「婚前の妊娠を知った、女子大生の驚き」の様な反応を示すのが当然という感覚だったのだろうと。
と、まあ、この第1章の導入部に衝撃を受けて、興奮して、読み進めたのですが、自分には理解できないことも多く、ちょっと疲れ気味に・・・
本は、さらに第2章以降、「神話画」、「宗教画(旧約聖書、新約聖書)」と進んで行くのですが、神の名前や挿話など、覚えることが多くなってきて、ただでさえ、記憶がこぼれ落ちる、爺にはついて行くのがますます苦しくなってきます・・・
もう、いいや、俺はある程度判れば、という気持ちになってきているのが、正直なところではあります。