11月末に、自分の元会社の人達のくまさんご苦労さん会がありました。
お店は海浜幕張。自分が会社勤めをしていた頃の海浜幕張は、中途半端で隙間風ビュービューの街だった記憶があります。
最近、居直ったようにごちゃごちゃと大衆路線のお店が出てきて、それなりに人を集めているみたい。長い付き合いの飲み助女性が、その会に参加出来なかったので、別途飲み会をやろうと。
彼女、飲み仲間のお友達と、美味しいお店を開拓しまくっている・・今まで、船橋周辺の美味しいお店を何軒か教えてもらっています。
場所は東京でもいいか、ご苦労さん会だから、くまさん今回は心配しなくていいよと、有り難い申し出をいただきます。
どこでもいい、ワインでも、日本酒でも、OK、という回答をしていましたが、彼女の選定は有楽町、TOKYU PLAZA、「魚河岸次郎松」でした。なんでも良いといいながら、正直言うと、日本酒がモアベターのくまさん、喜びます。
東京に出て行くとなると、このところの懸案事項であった東京都美術館「ゴッホとゴーギャン展」に行こうと。
今、色々な美術館のFacebookページに良いねして、各ページのニュースフィードで勉強をさせてもらっています。
日本ではポーラ、ブリジストン、根津、岡田、山種、三菱一号館美術館や、国立博物館など。
オルセー、ルーブル、グラン・パレ、プチ・パレ、ポン・タヴェンなどはフランス語オンリーの場合が多いのでなかなかフォローできない。英語版があるところが主になります。
メトロポリタン、クラークの記事が面白くて参考になり、MOMA、グッゲンハイム、バルセロナのピカソ美術館が時々というところでしょうか?
一番楽しませもらっているのがアムステルダムのゴッホ美術館です。本日の1枚を弟テオ等への手紙を添えて、展示してくれていて、好きな絵の時と、説明が面白そうな時には、即、シェア。
英語の勉強を兼ねて、日本語に直します。自分の守備範囲の中で、意訳しているので、元の意味とはかけ離れているかもしれませんが、まあ自分の備忘録なので、正解は要らないなと、勝手している次第。
今回、展示されていたゴッホの絵の中で、随分と、なじみのある絵があって、少しは勉強の成果がでているようで面白かったです。
ゴッホは日本を求めて南仏アルルに移住、画家の仲間のユートピアを夢見ます。
ゴッホはベルナールに手紙を書いています。「アルルは空気が澄んでいて、明るい色彩の効果のおかげで、日本のように美しく見えることを伝えたい。」
って、ゴッホが知っている日本って、浮世絵の世界の話なのでは・・・とちょっと疑問を覚えます。
期待を膨らませ、乞うて来てもらった、ゴーギャンとの共同生活は2ヶ月で破綻し、ゴッホは傷ついていきます。
ゴッホが最初の共同生活者として、選んだのが何故、ゴーギャンだったんだろう?
ゴーギャンを評価していて、生活に困っていたゴーギャンを扶けたい気持ちがあったという文章をどこかで読みました。
共同生活を始めて、ゴーギャンは、ゴッホに観たとおりに絵を描くのでなく、自分の創造性を絵に反映させることを薦めたのそうです。ゴッホがゴーギャンの言葉を素直に受け止めたのか、反発したのかはわかりません。
ゴッホは「絵を創造性する」ゴーギャンを「小説家」と評したそうで、「ゴーギャンの椅子」においてある本は、「小説」を表している、という説明がありました。
相対する自然を自分の流儀でキャンバスに写していくゴッホに対して、観たものから自分の世界を創造して行くゴーギャンの手法が相容れずに反発し合うものなのか、相互に影響しあい、インスパイアされていくものなのか・・・
二人の破綻が絵に対する取り組み方の違いが原因だったのであれば、共同生活を始める時に、ゴッホはそのことに思い至らなかったのか、違いは意識していたが、生活を共にする事に関わりが無いと考えたのか・・・
また、風景画に対して、ゴッホが肖像画を重要視していたことが展覧会に展示されていた手紙の内容にありました。
「モネが風景画を描くように、人物を描くこと、それがなににおいてもやるべき事だ。」
ゴッホは何事に対しても、子供のような純粋さで、必死に取り組み、はまると、他に目が行かなくなって、感情の高まりが一点に集中して行く・・・そんな人だったのかなと。
その気持ちの高ぶりのうっとうしさが、ゴーギャンの気持ちを萎えさせて行き・・・
ゴッホはゴッホで、自分の気持ちの高ぶりが受け入れられることのない、空振りに気づいたときの、やるせなさ、淋しさから病の世界に踏み込んでいった・・・と、勝手なくまの想像です。
上野から、有楽町に移動し、街の灯りがとてもきれいね、有楽町~って、イルミネーションを見物しながらTOKYU PLAZAへ。
酒、旅行、神社仏閣、音楽など、結構、じいの趣味と共通する話題を持った彼女と楽しい酒をごちそうになりました。
こうして、ご苦労さん会をしていただくと、改めて、会社生活の終わりを実感することになり、なんとなく淋しさも感じつつ、ねぎらっていただくことに、素直に有り難い気持ちで満たされます。