ジヴェルニー花の庭

『ひとひらのめも』に記載したことですが・・・

モネの家は現在はモネ財団が管理しており、手入れが行き届いて、色彩を考慮した花で溢れていて、モネの家の色と溶け合っているように思います。

今の状態が、モネの真の望んだ形を引き継いでいるのかどうか、と言うところは解りません。

でも、モネとの関わりを置いても、庭の美しさが迫って来ます。

ジヴェルニー 2015.04.26

チューリップが多いようなので、この時期の美しさかとおもいましたが、ショップでモネの庭の本を見ましたが、季節の花の移ろいがあり、時期によらぬ美しさがあるようでした。

1878年、クロード・モネは6年を過ごしたアルジャントゥイユからパリ、ヴィトゥイユ、ポワシーと移り住み、1883年4月にジヴェルニーに居を構え、1926年、86歳、この地で生涯を終えます。

第1回印象派展は1874年。王立アカデミーの官展、サロンでの落選を繰り返す、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーを中心に、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ドガを誘って、開いた独立展であった。

彼らと濃密な関係を持っていたエドゥール・マネはサロンにこだわり、行動を共にしませんでした。

インフォメーションの庭の草アヒル

もう、5年も前になります。三菱一号館美術館の渾身の企画、「マネとモダンパリ展」を鑑賞して、感銘を受けたことを覚えています。

多少大げさですが、自分にとって絵画が、より身近となった意味のある展覧会だったという気がして、『わかさはいかい』で、「マネとモダンパリ展」と言う記事を、結構興奮して書きました。

パリが生まれ変わりつつある時期に画家達がその社会の変革にインスパイアされるように、美術の世界に挑みつつ、自分たちも生まれ変わって行く時期であった・・・

ジヴェルニー

当時のパリの状況を織り込みながらの、説得力のある展示で、わかり易く、絵を見ながらなにかを自分で考えるという、今までにない気持ちを感じさせてくれたような気がしました。

マネとモリゾの関わりも絵の裏側にある、画家の愛憎が想像されて、面白く、当たり前のことですが、絵の背景を知ることも、絵に対して興味を深めてくれるのだと。

当時、社会の変革とともに、モネにとって、おおきな生活環境の変化が有り、そのことと、居を構える地の変遷とどのように影響があったのだろうかと、いうことを考えます。

ジヴェルニー モネの家

モネの生きていた時代の大きな変動を概略すると下記の様になるのかと。

1852年 ナポレオン3世による第2帝政。
1853年 セーヌ県知事オスマンによるパリ大改造。
1867年 第2回パリ万国博覧会に日本初参加、ジャポニスムの始まり。
1870年 普仏戦争
1871年 ナポレオン3世の失脚と普仏戦争の終結
1871~1875年 帝政崩壊による混乱、国防政府、パリ・コミューン、王政復古の兆し
1875年 第3共和国憲法制定、1879年以降政権が安定。

ジヴェルニー モネの家

画家の住む場所の選定というのは絵に対する取り組み方と関連しているのだろうと考えていました。

モネの場合には、もう少し人間くさいところで、転居をする必要があったことが起因となっているのかと思います。

1870年カミーユと結婚。カミーユは1866年のサロンで入選した「緑衣の女」のモデルであった、その後もモネの絵のモデルとして、たびたび描かれています。

その後、モネはサロンに受け入れられることがなく、困窮の中、1869年にセーヌ川で自殺を謀り、その翌年のことであった。

ジヴェルニー モネの家

同年、普仏戦争を避けて、徴兵を逃れ、ロンドンに滞在します。

この時期に、ターナーの絵に触発され、後の「日の出」に繋がると言われているようで、「印象派」にとって意味のある時期だったのかもしれません。

1871年パリに戻り、アルジャントゥイユに居を構える。この地は鉄道の便がよく、モネがノルマンディを絵を描きに歩くのには最適な地であったのだそうです。

1878年、モネのパトロンであった、エルネスト・オシュデが破産状態になり、身重の妻のマリアと5人の子供を置いて国外逃亡、モネはマリアと5人+0.5人の子供を引き取ることになります。

ジヴェルニー モネの家

この年にアルジャントゥイユを去る訳ですが、マリア一家を迎えるための地を求めたということなのでしょうか。

以前、この話を知った時に、アシュデが家族を捨てて逃げる、ということと、モネがパトロンの奥さんのマリアを引き受けると言う意味がよく、解かりませんでした。

モネとマリアは不倫の関係にあったという記載もあり、アシュデの死後、二人は結婚するわけですから、そういうことだったのかと。

アルジャントゥイユにカミーユとの住居を構えながらも、1877年にパリに部屋を借りているのですが、これもマリアとの逢瀬を重ねるためのものだったということのようです。

ジヴェルニー モネの家

このパリのアパートが今回我々の25日から27日までのパリのホテルのあった、サン・ラザール駅に近いところだったのだそうです。

サン・ラザール駅は、自分たちも実感したように、交通至便の基地であり、容易に帰宅もできる場所として選定したようですが、また、一連のサン・ラザール駅のシリーズが生まれるきっかけとなります。

一方、1878年3月、奥さんのカミーユは病弱の身で、二人目の子供,ミシェルを出産しており、引っ越しを喜ぶ状況にはなかった様な気がします。

ましてや、不倫相手の家族との同居が目的であったとしたら、気は重いし、もしかして、マリアの出産のための広い家を求めたということであれば、なおさらでしょう。

ジヴェルニー モネの家

カミーユはモネ家が大家族になった翌年の9月に病死します。

「失意の内に」と、勝手に修飾して付け足したくなりますが、全くの、下司の勘ぐりで、実際にはどうだったのでしょうか?

不倫の女性を同居させておいて、随分勝手な、とは思いますが、モネは若い頃から愛したカミーユの死に落ち込みますが、翌年から徐々に画家の生活を取り戻していきます。

サロンへの出展、印象派展への出展も果たし、1883年、カミーユの欠けた9人の家族としてジヴェルニーに移ってきます。

モネはまず「花の庭」を作り、後に道路を挟んだ地に「水の庭」を作り上げて、自身で、庭自体が彼の作品であるとの発言もしていたということです。

ジヴェルニー モネの家

ジヴェルニーに移ってからは経済的にも安定し「積み藁」、「睡蓮」などの連作を手がけていきます。

まあ、既に経済的基盤ができていたからこそ、自分の納得のいくような自分の家を造り上げることが出来た、ということになるとは思います。

それでも、モネはここに落ち着いてしまったということはなく、絵画制作の旅行に出かけることも多かったようですが、視力の衰えなどもあり、徐々にジヴェルニーでの活動が多くなって行ったのでしょう。

下記を参照させていただきました。

「印象派を巡る旅ガイド」斉藤幸夫、メディアファクトリー

※5月4日、アルルから再びパリに帰り、マルモッタン・モネ美術館を鑑賞しましたが、今年9月に東京都美術館、来年3月に京都市立美術館でマルモッタン・モネ美術館展が開催されるようです。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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