氷見ウォーキング2日目その2

上日寺から朝日山に抜けると富山湾と立山連峰が遠くに見えてきます。

朝日山の上は公園になっていて、キトキトウォーキングのコースにもなっているようでした。

ここからさらに光久寺目指して、歩いていたときに分かったのですが、氷見高校を通りすぎると、ウォーキングの集合場所で出発点でもあり、ゴール地点にもなっているスポーツセンターにでました。

朝日山展望塔から2014.10.26

市内を歩く10kmコースが、このスポーツセンターから朝日山を通り、街の中に降りていき、昨日、自分が歩いた、番屋街、漁港のあたりを廻って、上日寺を抜けて、スポーツセンターに戻るというルートらしい。

22kmコースがスポーツセンターからバスで不動山まで行き、海岸沿いに歩いてスポーツセンターまで戻るというもので、不動山の大分手前でUターンしてしまったけど、まあ自分の歩いたコースは結構良い線を行っているようだなと、自己満足。

公園の頂上にある展望塔の近傍に巨大な神武天皇の像が建っています。

明治41年、日露戦争の戦勝を記念し、戦没者の慰霊を目的として、神武天皇の像の建立を市街地を一望する朝日山に建立することを計画。

朝日山公園

また、像の周辺の丘陵地を整備、植樹して、朝日山公園を開園した。

神武天皇像の建立は氷見尚武会に所属の日露戦争従軍将官達の立案によるものとのこと。

全国組織の尚武会は退役軍人を中心として、国策の富国強兵策として柔術を通じて心身鍛練することを目的とした活動を行う組織であったようです。

尚武会のことを調べようとネットで当たってみたのですが、現在ヒットするのはムエタイ道場で、昔の尚武会についてはよくわかりませんでした。

敢えて、氷見に日露戦争の戦勝記念ということは、氷見と日露戦争というのは特別な関係があるのかと確認しようと思いましたが、どうも直接関係することはないようです。

神武天皇像

氷見郡の日露戦争戦没者は163名と言う記事がありました。

日露戦争における、日本全体の戦没者8万8千人余、戦死者5万5千人余ということですから、氷見が突出して多かったということは無いようですが、当時の氷見の人口比率からすると、大きな傷だったということなのかもしれません。

富山県工芸学校彫金科教師、大塚秀之丞製作の神武天皇像、その足下の文字「永芳」は日露戦争で功績のあった、乃木希典に依頼して揮毫してもらったものなのだそうです。

乃木は当時の学習院院長で、日露戦争終結の水師営の会見で、明治天皇の意向を汲み、敵将ステッセルに対して、彼の武人としての尊厳を重んじる応対をして、世界にその名を高めていた。

なぜに、日露戦争で明治天皇でなく、神武天皇?ということもよく分かりません。

神武天皇は日露戦争当時の軍神、戦いの象徴であったということなのか・・・

あるいは日露戦争に勝利した意識高揚があり、周辺諸国を併せた大日本帝国建国の意味で神武天皇だったというところだったのでしょうか?

スポーツセンター前

話はそれますが、無料のネットブックサービスで「古事記物語」を時々、読むのですが、神代から、大陸侵攻の意図を持ち続けた国なんだと言うことに少々驚きを覚えました。

定住型農耕民族で争いごとが苦手というか、下手な受け身の国民性、というくくりが自分の中にありました。

でも、それだけでは日本人の血を説明することはできない・・・

最近の安倍総理の言動などを見ていると、なにか怖い力が足下を掬おうとしているような気がしてます・・・

ただ、アメリカの言うことを聞いているというだけであれば、問題は別なところにあるかもしれないけど、日本人の中に眠れる鬼が目覚めようとしているということではないなと、少し怖さは薄れます。

本源的に、我々の底流に荒々しい好戦的な本姓を持った鬼が眠っている・・・ということを考えてしまうということです。

十二町潟水郷公園

日本の国を狭く治めるだけでは飽き足らず、膨張したくなるという気持ちの芽は、他人事ではなく、きっと、自分の中にもあるのではないか。

一端、目覚めた本姓は、同じ様に闇に向かう激流を感じた人が周辺にいると増幅し、歯止めが利かなくって、広い世界を求めていく。

日常が継続しているその他の多くの人は、迎合的に先頭に立ってリードする人達に従ってしまう・・・

ブレーキペダルは自分だけを見るのでは無く、他人、他民族の存在を感ずることができるかどうか、ということなのではないだろうか。

他国への侵攻ということと、テロによる無差別殺人ということと、周りの人間の尊厳を重んずるということを強く意識していくことで抑制をし、平常心を保つ・・・

自分たちだけ気をつけても意味がないことだけど、すくなくとも能動的に周囲を害することは自制すべきである。

十二町潟水郷公園

この歳になっても、自分の精神を制御できずに、時としてカッとなって怒鳴ってしまう、自分を振り返ると、よく言うよと、反省しつつ・・・

スポーツセンターを通りすぎて、160号線沿いに下ってくると右、光久寺の案内がありますす。

地図を見るとまだ行程の三分の一程度のようです。もうこれは光久寺に着いたらタクシーお願いするパターンだなと。

しばらくすると右手に美味しそうなお菓子屋さんがあります。

名前を忘れていましたが、さらに歩いたところに、十二町潟水郷公園があったので、近所の和菓子屋さんで検索すると立派なホームページをお持ちの「「山岸ちまき本舗」さんでした。

まだまだ行程があるのに、お土産として買ってしまった、「オニバスの華」が商品としてリストアップされていたので、間違いありません。

有名なお店らしく、お客さんが絶えない感じでした。

十二町潟水郷公園

お土産をリュックに入れて歩いて行くと十二町潟水郷公園がでてきます。

この公園の中にも、ウォーキングの幟が立っていましたから、コースの一つに組み込まれているようです。

十二町潟水郷公園は万葉時代、「布勢の水海(みずうみ)」という大きな湖が広がっていたところで、大伴家持が越中の国守として滞在していた当時、たびたび訪れて遊覧し、多くの歌を詠んだのだそうです。

また、オニバスの発生地としても広く知られており、国の天然記念物に指定されているということで、お土産の「オニバスの華」が納得なのですが、オニバスにはあまり関係ないようで、パイ生地の美味しいお菓子でした。

中を通り抜けて行けるのではないかと入り口に当たる橋を渡りかけますが、ちょっと不安・・・またここに戻ることになると、きっと萎えてしまって、歩けなくなるかもしれない。

残念だけど、水郷公園はパス。と決めます。従ってオニバスにはお目にかかることなく、公園沿いの道をひたすら歩き続けます。

十二町潟水郷公園

公園を過ぎても「布施の水海」の名残なのでしょう、広大な湿原というのか野原が広がっています。

もうひたすら歩くしかないなと人気の無い道を歩き続けてくると民家がちらほら見えてきて、右手奥に、布施の円山が見えます。

円山はかっての水海の中にあった高台で、大伴家持の館があったという言い伝えがあり、今は、頂上には布施神社がある。

きときとひみどっとこむの説明をお借りします。

「布勢神社は延喜式内の古社、、祭神は、崇神天皇10年(紀元前88年)に北陸道鎮撫将軍として派遣された四道将軍の一人、大彦命です。

その境内左側の茂みに、享和2年(1802)に建てられた「大伴家持卿遊覧之地」と刻まれた石碑があります。

布施神社

裏面の撰文によると、題字は正二位権大納言花山藤公。万葉関係の碑としては富山県内最古のものとのこと。」

「布施神社社殿の裏の松林に大伴家持を祭った「御影社」が建つ。

現在は、鳥居が建ち、前口90cm、奥行120cmの非対称の屋根を持つ、流造(ながれづくり)の社殿になっているが、元は建物前口3尺、奥行3尺の小さな祠であった。

大伴家持を祭った全国に数少ない社であることから、昔から、アララギ派の歌人・土屋文明をはじめ、万葉に心よせる人々が各地から訪れている。」

これが、街の案内地図に書かれていた布施の円山か・・・

写真を撮りながら、階段の下まできて見上げると、遠目に見たよりは直線上の階段が長く続いています。

光久寺

脇には回り道がありそうです・・・でも、ちょっと、もう登りたくない・・・しばらく佇んで光久寺を目指そうとあきらめます。

光久寺の本堂は今日の市議選の選挙事務所になっていました。本堂でゆっくりお詣りはできないけど、庭園はお茶室の拝観はご自由にどうぞということでした。

下記は以前、参考にさせていただいた氷見市の情報サイト「ひひひみ」の光久寺の記事です。紙の情報誌は発行されているようですが、HPにアクセスすると、For Saleの表示が・・・よくわかりません。

「光久寺の開山は奈良時代に遡り、真言宗寺院で長谷寺と呼ばれていた。

南北朝時代に近隣を支配していた狩野氏により現在地の飯久保城近くに移設され、浄土真宗のお寺として光久寺と改名された。

光久寺

江戸時代初期に加賀藩御用庭師である駒造が光久寺に茶庭を造園する。

本庭園は砂と石で表現する「枯山水」の庭とは異なり、自然の丘陵を利用した「山水の庭」である。光久寺の住職によると、駒造の作庭の意図は浄土の世界観を表そうとしたものであろうと。

奥の山の向こうが浄土の世界であり、手前側をが浮世の世界を表しているのではないかと。

お茶室とお堂を繋ぐ回廊が庭を横切っているが、この回廊は明治36年であり、その前の状態は記録が残っていない。」

えっ?町から歩いてきたんですか?って驚かれます。

御朱印をいただく間、ゆっくり、庭を眺めていてくださいと。

光久寺

お言葉に甘んじて、お茶室などを拝見させていただいた後、座敷にべたっと座りこみ暫く庭園を鑑賞させていただきました。

回廊が目前を横切っているので、庭の広がりを少し阻害しているのかも知れません。

でも苔むした屋根の回廊の雰囲気も含めてこじんまりして可愛い庭だなと思います。

暫くぼんやり座っていましたが、そうだ、もう、ちょっと歩けそうもないから、タクシーを呼んでもらおうと、住職さんにお願いして、さらにしばらく庭をぼんやり眺めていました。

駅までお願いしますとタクシーにお願いします。

色々周りたい所はあってけど、街中をゆっくり歩いた後は光久寺まで歩くことで、終わってしまいました。

光久寺

そんな話を運転手さんにすると、お客さんがよければ、藤の花で有名な藤波神社に案内しますよと・・・

そうか、今まで色んなところ行ったけど、タクシーで観光地を廻る経験をしたことはないけど、この際お願いしてしまいます。

藤波神社がある田子浦で大伴家持が歌を詠んでいます。

「藤波の 影なす海の 底清み 沈く石も 珠とそわが見る」

この歌に惹かれて、松尾芭蕉もこの地にあこがれを持ったということです。

田子浦の地名のとおり、かつては、この地は水際にあり、水面に藤の花が映り込んでいる様を詠んだということなのでしょう・・・

光久寺

たどり着いた藤波神社の階段はうっそうとした社叢(神社の杜を意味する?)に覆われていて、「浦」の面影はありませんでした。

階段を登って行くと、大木に寄り添うように、藤の樹が上に延びており、花房を撓わにした下を潜って歩くのは壮観だろうなと思います。

この古木にして、推定樹齢200年ということですから、家持の詠んだ藤とは直接関係はなく、万葉の名残を残しているということだと思います。

藤波神社は、元は神明社と呼ばれていたのであるが、上記の家持の歌にちなんで明治18年に改称されたのだそうです。

花房を重くたたえた時期だとまた感覚は違うのだろうなと考えながら、階段を上がり、お詣りを済ませました。

藤波神社

藤波神社の後に貝塚に案内いただき、駅に向かいました。

待合室にはウオーキングを終えた方達がちらほらといて、お話を伺いました。

目玉の不動山までバスで行って海岸沿いを歩いて帰るコースに参加したのだそうです。

満杯で他のコースに申し込んだけど、あきらめきれない人が多かったらしくて、本来は他のコースの人達がバスに乗ってしまったため、バスが足りなくなり、増発してようやく成立したとのこと。

開催者の不慣れな運用を感じますが、まず、目玉のコースの制限人数を誤っていたことが始まりだったのではないでしょうか。

まあ、おかげで自分はウォーキングと離れてのんびりと一人で氷見を十分に楽しむことができました。

1日目約21km、2日目10km超えと自分では満足の行く歩きでした。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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