ジヴェルニー睡蓮池の庭

あの、めくるめくような興奮を覚えたプロヴァンスから、大分時間が経ってしまいました。それなりに、「ひとひらのめも」で概要を綴りましたが、残りの写真を少し整理していきます。

文章は「ひとひらのめも」に重なるところがあるかもしれませんが、まあ細かいことは苦手なので、あまり気にすることなく行きます。

4月26日、モネの家の「花の庭」を堪能して、トンネルを潜り、モネが睡蓮を描き続けた、「池の庭」に至ります。

「花の庭」も「池の庭」もそれ自体が自分の作品である、というモネの言葉があるのだそうです。

ジヴェルニー睡蓮池の庭2015.4.26

作品に囲まれて、あるいは作品をバックに、作品を制作する・・・至福の晩年を過ごしたといえるのでしょうか。

「池の庭」は水の流れと葉の緑色の世界に柵や橋の落ち着いたミント系の色彩や藤などの紫色の花が重なり、独特の雰囲気を醸し出していました。

なんとなく、モネの生きていた時代に比較すると、睡蓮が繁殖して、びっしりと池の表面を埋め尽くしているのではないか・・・と思っていました。

モネが制作活動を続けていた様子を維持するように管理されている、ということなのでしょうか、睡蓮は適度に、まばらに散らばっていました。

Wikipediaのクロード・モネの項に、下記の記述があります。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

 

「印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。

モネは印象派グループのなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作を始め、多数の作品を残している。

ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン等はやがて、印象派の技法を離れて、独自の道を進み、マネ、ドガ等はもともと印象派とは違う気質の違う画家だった。

モネは終生、印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。」

最後の部分の「モネは終生、印象主義の技法を追求し続けた・・・」という部分に違和感を覚えました。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

印象派という名称の由来を考えても、モネ自身の発想ではないし、素人目にはモネが一つの技法にこだわったという感じもしないからです。

ピカソほど極端な変化の画家は少ないのでしょうが、モネについても、目の不調のせいもあるのかもしれませんが、晩年に近づくほど、なにか抽象的な絵画の世界を模索しているような気がしていたからです。

美術史家マリナ・フェレッティの著作で「印象派」という新書版を読みました・・・というか一度読了して、何回目かの読み直しをしています。

著者はポール・シニャック研究に業績がある、フリーの研究者で、オルセーの客員美術館員等を経て、現在、ジヴェルニーの「印象派美術館」の副館長を務めているのだそうです。

自分達がジヴェルニーを訪れ、モネの家の後に訪れた「印象派美術館」はかなり、充実した「ドガ展」が開催中だったことを思い出します。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

著書「印象派」の中にモネの言葉がでてきます。

「私がやったことといえば、自然を前にして直接描くということであり、それによって、つかの間に過ぎ去る効果を忠実に表現しようとしたのである。

そのために、私たちのグループに印象派などという名前がついてしまったのだが、そのことを申し訳なく思っている。この名称は私たちのグループのほとんど誰にも当てはまらなかったのだ。」

モネの創作活動が一般的には「印象派」と呼ばれる運動の中心であったのは確かなのでしょう。

しかしながら、少なくとも、モネ自身は「印象派」の技法を意識して、人生を歩んだわけではないことは明白だということでしょう。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

それでは、印象派とは・・・という命題に彼女は下記のように記載しています。

「印象派という名のもとに一つのグループにまとめられている、あの出自も気質もまったくばらばらな画家達を互いに結びつけているものはいったい何だろうか。

エレガントで、古典絵の愛好家であり、「革新的」とされたことにひどく驚いたマネ。

「ロマン派」で、その飽くなき探求故に、二十世紀絵画の生みの親とされるセザンヌ。

二人の間にどんな共通点があるというのか。

さらには自然にはほとんど興味を持たず、記憶によるデッサンを推奨したドガ。

水とその反映(水に反射した光景?)に魅されていたモネ。官能的な裸婦を描いたルノワール・・・・

さらにはアナーキストにして田園の画家であるピサロを含めて、彼らの間にはそもそもどんな関係があるというのか。」

印象派の画家達が集まって行く様子が描かれます。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

 

「ピサロ、ドガ、マネ、ラトゥール、ホイッスラー、モネ、ルノワールの全員が初めてパリに集まったのは1859年のことである。

彼らは19歳から29歳の若者で・・・それぞれに画家になる決意を固めており、そのうちの何人かは毎年のサロンに応募、たいていは落選し、批判的な鑑賞者としてサロンを訪れていた。」

ルノワール、ドガ、マネ、ラトゥール、ホイッスラーなどはルーブル美術館において巨匠達の絵の模写を続けており、お互いに知るようになっていたようです。

画学校で知り合った、ピサロとセザンヌを含めて、画家達はマネの通っていたカフェ・ゲルボワにしばしば集まるようになります。

マネは1863年に「草上の朝食」、「オランピア」と既存の絵に対する挑戦的で、衝撃的な作品を発表し、若い画家達の変革精神の中心的存在だったということなのでしょうか。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

また、ルノワールは1861年にスイス人画家グレールに指導をうけるためアトリエに通い始め、彼の指導を受けるようになった。

シスレー、モネ、フランス人画家バジールも同じグレールのアトリエに通うようになり、お互いの結びつきを強くしていきます。

このグレールのアトリエの集いこそが、サロンのアカデミズムに抵抗し、自分たちの展覧会を開催する「印象派」のグループの実質的な出発点となったということです。

モネを中心としたグレールのグループにドガ、ピサロが加わり、さらに、モリゾ、セザンヌ等を巻き込んで、サロンに受け入れられない画家達のグループ展の開催を企画していきます。

その第1回の展覧会は1874年に開催され、モネの絵のタイトルから「印象派展」と呼ばれるようになります。

マネは印象派展に参加せず、サロンに出展していながら、批評家は印象派の仲間というとらえ方で酷評した、という文章があり、面白いなと思いました。

以降、8回に渡る、「印象派展」は途中で意見が分かれたり、脱落する画家もでたりと、多様な要素を飲み込みながら、進んでいきます。

展覧会に関わった、多様な画家達、さらにはそのグループと距離を置いていた、マネも含めて、絵画界における、ルネッサンス運動のような変革運動・・・

いわば「新絵画運動」という大きな流れの端緒を切った画家達の運動の代名詞として、「印象派」があるということなのでしょう。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

「新絵画運動」は印象派から始まり、「後期印象派」と言うべき、印象派に属した一部の画家の1886年以降の活動に加え・・・

ロートレック、ゴッホ等、印象派展に出品もしたゴーガン、「新印象派」のスーラ、シニャック、さらには、ヴュイヤール、ボナール等の画家達が含まれる。

ゴッホは印象派とは活動を共にしなかったが、印象派と接することによりようやく「過去の絵画的因習の呪縛から解放されたのである」。

訳文の解釈が難しいけど、ゴッホ自身の内部において、旧絵画的手法に囚われていたところから印象派の絵画に接することにより、新絵画への意識開放があった・・・というようなことなのでしょう。

「新絵画運動は「フォーヴィスム」、「キュビスム」そして「抽象絵画」の誕生によりその歴史の終焉を迎える。」

ジヴェルニー睡蓮池の庭

著者は逆説的な言い回しで、狭義の「印象派」ともいうべき概念を括っています。これが一般的に言う、「印象派画家の技法」の総括になるのでしょう。

「結局のところ、印象主義運動とは、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーそしてベルト・モリゾ、この画家達の個人的活動の集積ということなのか・・・

彼らは皆、個人差はあるものの、短期間ではあるが(1868年~1787年)、典型的な印象派画家というべき制作活動をしている点で共通点を持つ。

すなわち、外光のもとで制作し、光とその効果にとりわけ注意を払い、もっぱら明色を用い、色のコントラストによって陰影を作り出しながら、素早く仕上げると言う方法を取り入れた。」

すなわち、屋外制作で外光に敏感に、色を置くことにより、光、反射光を表現するという「筆触分割法」が特徴的な技法ということでしょう。

従来、絵の制作はアトリエで行われ、風景画を描く場合には戸外でスケッチをして、アトリエに持ち帰り、色付けをしていた。

コローなどの風景画を描いていた画家にしてもそうなのか、という疑問はありますが・・・

例外はあるものの、印象派の画家達の多くはフォンテンブローなど、戸外で色塗りまでの制作を試みるようになった。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

社会の変革に伴う意識変化により、画家達の表現したいテーマが、歴史画、宗教画、スポンサーの肖像画などから、より生活に密接したテーマを描きたいと大きく変わっていきつつあったということもあり、テーマを求めて、戸外で出るということもあったのではないでしょうか。

戸外で色塗りをするためには容易に持ち運びのできるチューブ入りの絵の具の開発、その絵の具を下塗り無しに、直接的に置けるカンバスの開発が必須だっだということで、技術的に可能性の広がる時期に生きたというメリットもあったのでしょう。

戸外で制作をすることにより、対象物と長い間対峙することになり、経時変化による光の変化により色が変遷していく様を観察できるようになる。

これにより、対象物を決まりきった色で表現するのではなく、瞬時、瞬時の色の変化に敏感になって行ったということがあるのでしょう。

ネットで色々調べている内に、モネとルノワールが行動を共にしていたときに描いた「ラ・グルヌイエール」の絵を観て、感銘を受けました。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

これがいわゆる「筆触分割」なのかと・・・二人が本気で絵の具を抑えることにより光りを捕まえようと、競って、研鑽していたんだなと・・・というところです。

後にルノワールの絵は大きく変化するわけですが、「ラ・グルヌイエール」に関してはモネが二人いる、みたいに、二人で、技法を研究していたのだろうと思います。

ルノワールはルーブルで巨匠の名作を模写していたという記述がありましたが、自分の落ち着きどころを求めて、様々なことを研究して、自分のスタイルを見つけていくということなのでしょうか。

筆触分割では色を混ぜずに置いていくことにより、色が濁るのを避け、鮮やかな色彩を出すという目的もあったのだそうです。

サロン風の絵のように、色を混ぜて、丹念に仕上げていくと、色が沈んて暗くなることを避けるということのようです。

ジヴェルニー睡蓮池の庭

社会の変革が「印象派」を生み出したと言う観点からすると、鉄道の発達が画家達の行動範囲を広げたことも、戸外制作とテーマを広げることの一助となったということがあるようです。

ちょっとWikipediaの記事から自分には荷が重すぎる方向に行き、意味不明な文章を書き連ねては、挫折して、ブログの更新を大きく妨げることになりました。

結局中途半端なままジヴェルニーを終えて、これからプロヴァンスに向かうことになりますが、さらに、絵のことを勉強しつつ、考え方を整理していきたいと思います。

一橋大学のフォーラム21の中で、喜多崎 親教授の「印象派とは」という講義の中で、以下のようなお話をされています。

勝手に文章を変えているのでもしかして意味が違ってしまっているかもしれませんが・・・

ジヴェルニー睡蓮池の庭

「近代美術史は抽象に至る発展史」である。

歴史画、宗教画などは絵に意味があり、また、セザンヌの描いたリンゴなどは対象物の形に意味があった。

抽象画はその形に意味がなくなり、その形をどう描くかが意味を持つ。

近代美術史はその抽象画が生まれてくる過程を議論しており、その萌芽がマネ、あるいは印象派と考えられる・・・

Wikipedia「印象派」
一橋フォーラム21「印象派の展望ー新しい位置づけ」
『印象派』マリナ・フェレッティ著 武藤剛史訳 白水社
『まなざしのレッスン②西洋近代絵画』 三浦篤 東京大学出版社

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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