深川「木場」探訪

千葉朝日カルチャーセンター「目利きの東京建築散歩」。以前も、記事にしたことがありますが、東京の近代建築を巡る半日の教室で、3ヶ月に1回くらいの頻度で開催、この3年程度、都合が付くときに参加してきました。

集まる人達は10人を超える程度で、細々と開催されてきましたが、今回が最終回ということを告げられ、ちょっと寂しいことになりました。

10年続いた企画で、自分が参加し始めた時には、めぼしい建築物巡りは一巡してたようで、建築物よりは橋、水門などの構造物、著名団地開発などが主体になっている感じでしたので、ネタがとぼしくなってきたということもあるのでしょう。

木場駅から清澄白河駅まで

自分としては、2巡目でいいので、東京建築のおさらいをして欲しい気持ちがありますが、正直者の小林講師、二番煎じを続けることは御自分で耐えられないところがあるのでしょう。

小林一郎さん、アマゾンの著書の紹介欄を引用します。大学のご専攻は経済なのに、建築評論家、さらにはガード下と小路をこよなく愛する方で、自分の興味を惹くお人です。

「明治大学卒業後、出版社の編集を経て、1984年、土木・建築を中心とした編集プロダクション・秋耕社を設立。以降、鹿島出版会、エクスナレッジをはじめとした雑誌、単行本での執筆、編集制作を手掛けてきた。

「週刊住宅情報」(リクルート)では、巻頭カラーページを担当し、社内で数々の賞を受賞。また、書評歴も長く、「住宅建築」(建築資料研究社)では10年以上続けていた。

2010年「ガード下学会」設立、2012年6月「横丁・小径学会」に改組し、自由参加で横丁と路地探索している。」

街を歩いていて、面白そうな橫丁があるとついカメラを向けてしまう「くま」さん、橫丁・小径学会というのはまさに同好のニオイがしてしょうが無い。コロナが落ち着いてきたらお邪魔してみようかと・・・

橫丁、坂、石畳、看板、門構え、窓、橋などなど、まあ、興味の対象は広がっていき、際限がないのですが。本当に撮りたい人物は自由に撮れないまま、この歳になってしまいました。

とりあえず、小林講師の著作のうち、「ここだけは見ておきたい東京の近代建築」のⅠ巻とⅡ巻を購入しているので、この本を自分なりにトレースしてみようと考えています。

以前から計画を立てながらなかなか進まないテーマ、「広重「江戸百景」と「江戸古地図」」を利用した東京巡り、「東京近郊お祭り巡り」、「東京近郊公園巡り」、「江戸東京水道巡り」などテーマはこなしきれないほど色々あって、残りの人生、しかも躰と財政が維持で

ここら辺で、イベント参加でなく、自分企画を進める時期がそろそろ来ていることなのだろうと考えてもいます。

と言うことで今回は東西線「木場駅」集合、州崎神社、州崎の町並み、木場公園(東京都現代美術館)、仙台堀、小名木川、同潤会アパートメント跡、のらくろ館、深川江戸資料館、清澄白河駅までの4.4km、3時間半のイベントです。(冒頭地図参照)

州崎(すさき)周辺は江戸城への物流の水路として小名木川などの河川整備が行われた際、河口付近の付近の土地が造成された地域。

ただし、満潮で冠水する状態であったため、水路と畦を配し、養魚場が発達する。さらに、春先にはは潮干狩りの地として賑わい、文人墨客が集まり、船遊びをする芸妓の歌が響く地として発展していった。

州崎神社は元禄十三年(1700年)城内紅葉山にあった桂昌院の弁天社が現在地に遷り祀られたことを起源としする。州崎の地名の元となった、と言う記述がありましたが、元々土地の

海岸から離れた小島に建てられたため、人々からは「浮き弁天」の名で呼ばれ、海難除けの社として地元漁師の信仰を集めた。

桂昌院は家光の側室で、五代将軍綱吉の生母であり、仏教への帰依の心篤く、護国寺の創建、善峰寺、南禅寺、清涼寺、西明寺、真如堂などなど、さらには唐招提寺戒壇院の再興などに携わった。

桂昌院の生まれは定かではないようで、父が関白に仕えていた家臣と言う説から、「八百屋のお玉」まで諸説あり、そのうちの八百屋の娘説が「玉の輿」の語源とするということであるが、これも明確ではない様です。

祭神は厳島神社より分霊された宗像三女神の一柱で市杵嶋姫命(いちきしまひめ)とあります。「いちきしま」は弁才天の本地垂迹、厳島(いつくしま)の語源という説もあるのだそうです。

寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、周辺家屋を呑み込み多数の死者を出す大惨事が発生した。

幕府は高潮に備えて洲崎弁天から西側一帯を、津波に備えての冠水地帯として居住を禁止し、災害の惨状を記録した2本の波除けの碑を設置した。

現在このうちの1本が洲崎弁天の境内に移設され現存している。(前出掲示板参照、肝心の碑を撮影していませんでした。)

州崎橋跡の碑の前で、州崎の町並みを遠目に見て、説明があります。

1887年(明治20年)、富坂(現・文京区)に東京帝国大学が新築されることになり、風紀上の観点から直近に存在した根津遊廓の移転計画が進められた。

吉原には受け入れの余裕がなく、1886年(明治19年)に洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、洲崎弁天町が誕生(現在の東陽一丁目)、1888年に深川洲崎遊廓の開業式が挙行された。

大正時代末期には300件前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』(ほっこく)と同様に、『辰巳』(たつみ)の異名を持つほど)に発展した。

第二次世界大戦により深川地区は激しい空襲に晒されるようになり、1943年(昭和18年)には洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等となったが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。

第二次世界大戦終結後、半年で「洲崎パラダイス」の愛称で洲崎遊廓は復興。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇る。

1958年(昭和33年)に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。(Wikipedia)

講師のご説明で洲崎を舞台にした1956年(昭和31年)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」(三橋達也、新玉道代主演)の紹介がありました。

木場公園へ。貯木機能が新木場に移り、埋め立てられた時に、防災エリアとしての空間として設けられた公園。木場公園に沿って流れる大横川沿いに河津桜が並んでいるようです。

公園は仙台堀川を挟んで南北に分けられていて、南部にはよく整備されたハーブを中心とした都市緑化植物園が目をたのしませてくれました。

仙台堀川は中川と隅田川を結ぶ運河の一つで、北岸にあった仙台藩にちなんだ仙台堀が名前の所以ということです。

仙台堀川を越えた北側の木場公園はテニスコート、運動グランドなどとともに、都立現代美術館がありました。今回は素通りでしたが、いつか訪れてみようと。

その後三ツ目通りを白河三丁目交差点を渡ったところではす向かいを見るとマツキヨがあります。もと同潤会アパート清砂の跡地で形状は当時のアパートを模しているとのいるとのことでした。

同潤会アパート清砂(マンション再生協議会

同潤会は大正12年(1923年)の関東大震災後に、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅を供給することを目的とした財団法人で、16カ所の住宅を建設し、戦時下に発足した住宅営団にその業務を引き継ぎ解散した。

1999年にDOCOMOMO Japan※は日本の「近代建築20選」を選定し、その内に、一連の同潤会アパート建築が一番に選ばれている。本20選は徐々に追加され、2019年現在、226件が選定されている。

※DOCOMOMO 
(ドコモモ、International Working Party for Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement)は、1988年に設立された近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織。パリ本部にある本部と40か国以上に設けられた支部とから成る。

同潤会の次がのらくろロードを通って、「田川水泡・のらくろ館」へ。田川水泡が若い頃を江東区で過ごしたことを記念した、ということらしい。自分は「のらくろ」に余り思い入れはないけれど、メンバーに「のらくろ」ファンがいて、えらく感激された模様でした。

何回目かの小名木川、西深川橋に造形作家、松本哲哉氏作シーラカンス像「GONBESSA(ゴンベッサ・幸せの魚)」があります。

松本は羽のある3匹のカメ「HANEKAME92」(亀戸駅前)や、謎の人面魚「PERSONA抄」(93年 汐浜運河南開橋)も製作。

江東区の水辺の景観整備事業の一環で、水に関係のある像を製作したようですが、なぜここにシーラカンス?というのは作家の感性、ということのようです。

「深川江戸資料館」に到着。江戸資料館は江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大でかなり細部にこだわって再現したもので、これは文句なく面白かったです。

皆興味が尽きないようで、30分程予定時刻を超過、その後清澄白河駅まで歩き解散となりました。


くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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