隅田川のはじまり、赤水門

10月17日(水)、朝日カルチャーセンターの「目利きの東京建築散歩」に参加。めぼしい建物巡りは一段落したということなのか、今回は水門がメインターゲットになります。

先週、市民大学専門課程から成田山仏教講座にハシゴしたのですが、専門課程が15分程延びたため、電車の時間が心配で少し早く歩きすぎ、足が痛くなりました。

赤羽駅北口

もう、20年以上前になりますが、ゴルフ場で坂を駆け上ろうとした途端に、肉離れ、数週間で治癒しましたが、筋肉の離れた部分が、すこしずれて固まって、変形しているような気がします。

普段は気にならないのですが、少し疲れがたまると、古傷の周辺の筋が、コリコリに硬くなり、いまにも、脚が攣りそうな感覚になります。つらさは残りながら、翌日には、楽になるので、そのまま忘れてしまうのが常でした。

建築評論家 小林一郎さんが講師です。

今回は痛みがひどく、踏み出す度に、ふくらはぎにズキンとくるので、脚を引きずりながら帰りました。

動こうとしなければ痛みはないので、肉離れの再発というわけではないのだろうと。

カトリック赤羽教会

日曜の朝になっても、痛みは変わらないので、湿布薬を買いに行き、少しだけ楽になりましたが、痛みは消えることなく、月曜に参加するつもりだった自然同好会の観察会をパス。

火曜日も家で大人しくしていましたが、復調せず、今日は脚を引きずりながらの参加となりました。

最初の訪問地は「被昇天の聖母」カトリック赤羽教会(http://www.catholic-akabane.com/)。

「被昇天の聖母」について、教会の公式サイトに説明があります。

「無原罪の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わったのち、肉体が霊魂と共に天の栄光にあげられたことは神によって啓示された真理であるという教義。」

正面入り口の聖母像

カトリック東京大司教区に本教会の建設経緯が記載されていました。

長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を感じ、東京に牧師を派遣します。

赤羽に、空襲で焼けた工場跡の土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父が協会地として、アメリカからの寄付金で購入しました。

カトリック赤羽教会被昇天聖母像

1947年12月8日「無原罪の聖マリア」の大祝日に教会の定礎式が行われ、1951年(昭和26年)にゴシック様式鉄筋コンクリート(SR)造りの聖堂が落成した。

ゴシック様式の建物と言っても、明確な様式を指す言葉ではないのだそうです。

天井の高さ、天井部の交差ヴォールト、細い柱、その代わりとしての側壁あるいは控え壁、円を頂部で交錯させる尖ったアーチなどが共通した特徴なのだそうです。

カトリック赤羽教会

教会を後にして、赤水門に向かう前に、戦後闇市由来の昭和レトロの匂い濃い一番街、OK横丁を歩きます。道筋に入った途端に、良さげな飲み屋が並んでいて、自分の肌合いにピタリとハマる感じがわかります。

今日は木曜日、世間的には平日のまだ午後2時半ですが、「まるます家」さんの前には、なんと行列ができています。

番組の名前を忘れたけど、赤羽のおでん屋で「ダシ割り」って言って、ワンカップの酒におでんのダシを入れたのが旨いってのをやってたのを覚えていました。

今朝、なにげに見ていたNHKの番組で赤羽のおでん屋さんの話をしてて、ああ、この間見たおでん屋だと。

昼から行列のまるます家さん

先生に、そう言えば今朝、赤羽のおでん屋の話をしてましたけど、って振ってみたら、今日、その店に行きますよって、大分有名なお店だったらしい。

残念ながら、有名おでん屋「丸健水産」さん、定休日の貼り紙あってシャッターが閉まっていました。悔しいので、ネットで見つけた丸健水産さんの写真を借りしました。

横丁を抜け、水門目指して荒川に向かいますが、おでん屋さんの写真の中にあるカップ酒の「丸真正宗」の醸造元、小山酒造があります。

小山酒造山、東京23区内唯一の酒造メーカーで、昔は酒造見学もできたらしいけど、、今年2月に廃業、ネットで見ると、業績も上向きになりかけた矢先とありましたが・・

丸真正宗に関しては、今のところ、在庫残りがあって、関連の小山酒店で手に入ると貼り紙がありました。

実は、23区内の酒造については、2011年に100年振りに醸造を再開した東京港(とうきょうみなと)酒造があり、23区内に2社あったということになります。

結局、小山酒造が廃業したため、23区唯一の酒造会社になった東京港は酒造としての創業が1812年(若松屋)、日清、日露戦争を経て、社業が傾き、1909年に廃業していたということです。現在のお酒銘柄は「江戸開城」だと。

旧小山酒造

荒川沿いに暫く歩いて、岩淵水門(青水門)、旧岩淵水門(赤水門)のところに建てられた荒川知水資料館に到着。

旧荒川(現隅田川)の氾濫を抑えるために荒川から分岐した荒川放水路(現荒川)が掘削され、分岐点の岩淵に1924年に旧岩淵水門(赤水門)が完成した。

荒川知水資料館

荒川上流の水量が増加したときには、岩淵水門を閉め切り、旧荒川下流の水量を調整し、荒川放水路へ放出する役割を持っている。

赤水門の5連の水門のうち、右端の大型門は後に船が通過できるように改造されたのだそうです。

岩淵水門(赤水門)が出来たときの地図は下図の通りで、現岩淵水門の設置位置を青の推定線で記載しています。

旧荒川は下流にいたり、隅田川とよばれていたが、現在は荒川放水路を「荒川」、旧荒川を「隅田川」と呼称するようになったため、岩淵水門が隅田川の起点になるということで、本日のタイトル「墨田川のはじまり」に繋がるということです。

旧岩淵水門(赤水門)設置時の状況

赤水門は地盤沈下の問題を抱えたこと、想定水量の見直しから、容量不足となったことから、300m下流にあらたに、新岩淵水門(青水門、1982年竣工)が建設され、その用途を終えた。

現在の姿が上記の通りであるが、用途を終えた赤水門は撤去されるべきところ、記念碑として残すこととなり、新岩淵水門用に荒川の合流点の流れを一部変更し、赤水門は残され、記念館が建設された、ということのようです。

東京から千葉に向かう総武線の車窓で川が何本も出てきて混乱しますが、いずれ詳細に検討したいと思いますが、今回、墨田川と荒川についてはその経緯が理解できました。

地図で見ると、東京から総武線にで千葉方面に向かった時に確認できる川は下記の通りです。

隅田川から始めて大横川(小名木川と交差する運河、北側伏流?)、横十手川(小名木川と交差する運河)、旧中川、荒川、荒川の隣を流れる中川(中川放水路)、新中川(新中川放水路)、江戸川を渉って千葉県、ということになります。

さらに細かい川もありそうで、市川当たりから墨田川まで歩いてみようかと考えています。さらに関連して、小名木川沿い、旧江戸川とか、歩いてみたいところが次から次へとでてきて、間に合うのかしら・・・

黒田機器東京工場事務所

赤水門に満足して、赤羽駅に帰る途中、面白そうな洋館が現れました。

長尺シャフトの製造では著名な黒田機器株式会社の東京工場事務所で、昭和初期の洋館を麻布から移築したということですが、非公開で外から眺めるしかないのだと・・・

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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