吉岡の里山を歩く

10月7日(日)、市民大学で企画された見学会「吉岡の里山を歩く」に参加しました。

集合場所は吉岡のY.Y.NOWSONって、四街道(Y)、吉岡(Y)、今時の(NOWい)村(SON)を繋げたものということだそうです。

キツネノマゴ

いただいた「吉岡の里山を歩く」の資料の説明は以下の通りです。

「Y.Y.NOWSONは失われつつある吉岡の里山、谷津田の景観を保全し、伝統文化を守り伝えることを目的として活動している団体で、平成27年度「コラボ四街道」プロジェクトに採択された。

イヌタデ

農村景観の魅力を紹介するため、東京情報大学の先生方と講座を開催して、何度も市民と友に歩きました。」

コラボレーションは近所の東京情報大学、文化人類学者のケビン・ショート教授を 中心とした大学の協力があるということのようです。

Y.Y.NOWSON
Y.Y.NOWSON看板

公式サイトに四つのコラボ、①四街道自然農塾②よつグルメ研究会③東京情報大学④「一村のアトリエ」という記載がありますが、どうも具体的な活動イメージが湧きません。

一番解りやすそうなのが、「四街道自然農塾」で、下記の説明があります。

クリ

「自然農を学びたいという方たちにむけて共に自然農を実践しながら共に農の技術を高め共に自然界の理解を深め、人としての自立を支援すること、食の自立を支援することを目的として開塾しました。」

さらに・・・

ツマグロヒョウモンチョウ

「農薬や化学肥料、堆肥や微生物、機械や施設、石油やビニールなど、何も用いることなく、健康で清浄な、安全で美味な恵みを手にする。

最も単純で小労力で栽培でき、環境に一切問題を招かない永続可能な農法です。」

ゴマダラチョウ

 自然農法や実験的農法に興味のある人達が集まって、学びつつ、実践する場として機能しているということらしい。

Y.Y.NOWSONへの集合は、時間に間に合うバスがあるらしいのですが、会の終了する時間帯にちょうど良い足がないらしい。

従って、車で行く人は見学会終了後、駅まで同乗させて欲しいと言う話は事前にありました。

サトイモ?

実はこの週末に、吉岡に近い旭公民館で「旭公民館まつり」が開催されています。

四街道自然同好会がブース出展をしており、自分も、おこがましくも、今までの花の写真の一部を「辻が花」と銘打って出展させていただきました。下記はそのイメージです。

どうせなら車で行って、帰りに公民館を覗いてみようと。

見学会終了後、本当なら、どなたかを駅まで送りすべきだったのですが、車は10台以上、参加人数は25人程度で、車が余る状況。役員にお断りして、同乗者なしで、一人で公民館に向かわせていただきました。

今日の見学会はY.Y.NOWSONの代表の岡田さんに案内していただきます

関連する、「蔵の図書館」「ツリーハウス」などは、広大な岡田さん宅の敷地をを利用した施設のようです。

簡単なブリーフィングの後に、出発。コースを歩いた後に、再びここに戻り、「蔵の図書館」などの施設を見るとのことでした、

最初が馬頭観音様、明和5年戌子(1768年)2月吉日とあります。明和は徳川家治の治世で田沼意次がのし上がっていく過程の時代であったようです。

馬頭観音

明和9年に、死者1万4700人、行方不明4000人をだした江戸の三大火事の一つ「明和の大火(目黒行人坂の大火)」が起きています。

今まで、四街道で見た馬頭観音は石碑のみで観音様のお姿がありませんでした。

吉岡の馬頭観音は、正面のお顔に「馬頭」がおられる三面六臂の観音様で、 穏やかなお顔で、でも、どこか哀しそうな表情をしておられます。

若狭中山寺馬頭観音

以前、福井県の若狭中山寺の御開帳で拝ませていただいた馬頭観音は、  吉岡の観音様と同じく、三面六臂のお姿で、 頭上の馬頭がもっと馬らしい形をしていて、観音様のお顔が 三面とも観音様というよりお不動様のような憤怒の形相をしていました。

中山寺の近くにある馬居寺、県境の青葉山を越えた、京都の松尾寺の馬頭観音も中山寺ほど明確ではありませんが、やはり憤怒の形相でした。

センブリ

確か松尾寺で馬頭観音のお姿は農耕馬に関連し、農業の神とされている、というお話を受けた記憶があります。憤怒の形相は災厄を防ぐ強い意志を示すのか、と思っていました。

今回、馬頭観音を調べて見ると、六道におられる六観音のうち、畜生道におられる観音様であるとの記述がありました。

案内していただいた岡田さん宅の入り口、豪農のお宅だったのでしょう。

 六道と六観音は以下の通りで、地獄道:聖観音、餓鬼道:千手観音、修羅道:十一面観音、人間道:不空羂索観音、天道に如意輪観音、そして 畜生道に馬頭観音 がおられるということです。

六道というと、色々なところで確認してきた「六地蔵」、あるいは、大谷吉継が盟友平塚為広に宛てたと考えられる、辞世「 契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」(六の巷:六道の分岐点)って、すぐ関係ない方向に・・・

庚申塔 青面金剛像

続いて庚申塔に向かいます。こちらは亨保2年丁酉(1717年)10月吉日で、さらに古い石像になります。

亨保年間は前出の家治の祖父、吉宗の治世。吉宗は先々代、先代の家宣、家継を補佐して「正徳の治」を進めた新井白石等をパージして、「享保の改革」を進めました。

庚申塔 青面金剛像の足元に掘られた三猿

干支の「庚申」(かのえさる、こうしん)は十干の庚(かのえ、こう)と十二支の申(さる、しん)の組合せになります。干支は10個と12個の組合せですから最小公倍数、60で一廻りとなる。

陰陽五行説で、庚は十干の「陽の金」、申は十二支の「陽の金」で、庚申の年(60年毎)や日(60日毎)には金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされ、禁忌行事を行う信仰がある。

福星寺館跡 山門 廻りの土塁は砦の名残。空堀が残っている。

また、道教ではこの庚申の日に、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)という虫が、夜の間に、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとする謂われがある。

それを防ぐために、庚申の日の夜は夜通し眠らずに、天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習があり、これを庚申講という。

福星寺 しだれ桜 お寺の創建時からの桜で樹齢380年とも

庚申塔はこの講を3年18回続けた記念に建立されることが多く、塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申塔の形や彫られる仏像などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿と村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い、と。

セイタカアワダチソウ

仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることが多く、神道では、申にちなみ、猿田彦神が彫られることもある。

庚申塔は街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多く、さらに、悪霊が村に入るのを防ぐ塞神(さえのかみ)として建立され、村の境目に建立されることもある。

四街道唯一の落花生専門農家のボッチ

里山歩きなのにちょっと石像に入れ込んでしまいました。

続いてシダレザクラで有名な福星寺、って自分は知らなかったのですが・・・に向かいました。

お寺の創建時からあるという雰囲気のある桜があります。帰ってから奥さんに聞くと、桜を見たことがあるということでした。

大六天神社

境内にはその子供の桜も育っており、さらに、福星寺の境内は土塁に囲まれているのですが、その土塁の上にはソメイヨシノが並んでいて、桜の時期はさぞや、と思いました。

境内を囲んでいる土塁は昔の砦跡なのだそうです。この後、更に歩いた所に「木出城跡」があり、双方とも戦国時代の城跡で、土塁、空堀などの遺構を残しているということです。

東京情報大学

木出城跡は個人のお宅の庭を通り抜けるため、きちんと断りを入れる必要があり、団体さんでは遠慮したいとのことで、今回はパスでした。

今度、一人で歩いてみようかと。

東京情報大学近くの桜並木

境内にシダレザクラの説明板がたっていて、それによると、福星寺は元和2年(1616年)に権僧都(ごんのそうず)宥照(ゆうしょう)による創建と伝えらる。

親寺である金親村(現千葉市金親町)金光院境内にシダレザクラがあり、鷹狩りに向かった家康が立ち寄り、その見事さに、樹に触って讃えたため、「お手かけの桜」と呼ばれていたのだそうです。

自然農塾生達の栽培している黒米

福星寺創建にあたり、金光院の「お手かけの桜」を株分けし、境内に植えて、今に至るのだそうです。説明の最後に平成6年と記載されています。

ということで樹齢380年とありますが、2018年時点で考えると樹齢400年にならんと言うことになります。境内のもう一本の桜はこの桜の子供で樹齢50年以上、ということでした。

蔵の図書館

その他、大六天神社、里山の自然農法による畑などを歩き廻り、東京情報大にたどり着き、途中、綺麗な桜並木を通って出発点にもどります。

ここで、「蔵の図書館」を見学して、本日の予定は終了。

ナツメの実だそうです。

実は四つのコラボの内の「一村のアトリエ」で田中一村に関係する話を期待していたのですが、一村との関わりはあるが、関係する物は現存していないということでした。

田中一村は栃木に生まれ、東京美術学校へ入学しますがすぐに退学、それ以降は特定の師にはつかず、独学で画家人生を歩み、千葉で20年間、ひたすら写生に没頭します。

 田中一村 初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)

その後、新しい創作への道を模索する中で、奄美大島へ渡り、亜熱帯の植物や鳥などを題材にした日本画を描き、独自の画業を追い求めました。一村の生前はそれらの作品を発表する機会もなく、無名のままこの世を去ります。

歿後10年ほどしてから、テレビなどに採り上げられ、 「日本のゴーギャン」などと呼ばれて、評価が高まり、奄美に「田中一村記念美術館」が完成するまでに至った。

田中一村が千葉に居た時代に、今日のご案内の岡田さんの義父、国立千葉療養所(現、東千葉病院:自分が糖尿で通っている病院です)所長、岡田藤助と親交があったようです。

奄美に移った一村が、再度千葉に出てきた時期があったのだそうですが、既に千葉の家を引き払ってしまっていた一村に対し、岡田藤助は仁戸名の療養所に接した所長官舎を住居、アトリエとして融通したのだそうです。

旭公民館

藤田に感謝した一村は襖絵を三幅、吉岡の岡田家へ残し、その絵の仕上げに一時期、岡田家に逗留したことはあるのだと。

ということで、千葉の「一村のアトリエ」は仁戸名、襖絵も現在は奄美の「一村記念美術館」で保管されており、当家にレプリカもない、ということなのですが、岡田家と一村の関わりは濃密なものがあったことが伝わりました。

旭公民館

見学会終了後、旭公民館に寄り、 自分のアルバムが展示されているのを確認し、 自然同好会の年会費納入、12月5日のバスハイクの申込を終了。今回は館山方面なのだと。

同好会の役員の方達が公民館のテラスで竹細工やバフウモミジの実やドングリなどを使ったブローチなど作成する工作教室を指導されているところに挨拶をして帰宅しました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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