中央線沿線歴史探訪 日野~豊田

1月25日、中央線歴史探訪の続きに参加しました。前回12月に国立から日野まで歩き、今回は日野から豊田までになります。

日野は新撰組に縁の濃い土地で、副長土方歳三、副長助勤(六番隊長)井上源三郎の出生地であること。

如意山宝泉寺 菩提達磨象

さらに、日野宿脇本陣であった佐藤彦五郎家(下佐藤家)に設けられた天然理心流道場に上記両名の他に近藤勇、沖田総司らが集っていた。

後に、彼らが上洛して、新撰組を結成したことなど、で日野の売りは「新撰組のふるさと」ということのようです。

如意山宝泉寺 井上源三郎墓

中央線は立川で青梅と高尾方面に分岐していきますが、多摩川は青梅線沿いに流れていて、日野から高尾方面は、多摩川を渡って対岸にきてしまい、本流からは離れていきます。

って、極めて当たり前のことを書いているわけですが、関東久しぶりの浦島太郎グマの自分なりの整理をしております。

日野は多摩川の支流の浅川と多摩川の合流点にあたり、前回勉強した立川崖線は多摩川の対岸を青梅方向に向かっていきます。

日野台地は多摩川の対岸と浅川による段丘により形成される崖線があり、湧水の豊富な土地として、知られていて、国交省の「水の郷百選」の中に、選ばれていて、東京では日野市の他には墨田区(隅田川)が選出されています。※脚注

八坂神社

ちなみに、千葉では佐原小見川(共に現香取市)、福井では大野市上中(若狭町)が選ばれています。上中は瓜割の滝、天徳寺、熊川宿等の総合として認定されているようです。

大分昔の話になりますが、漫画「陰陽師」にからめて、瓜割の滝について「水の国、水の森」という記事を書きました。

福井県遠敷の鵜ノ瀬から東大寺2月堂「若狭井」へ御神水が10日かけて送られ、各々「お水送り」、「お水取り」行事が執り行われます。

三鷲山大昌寺

「陰陽師」では「水の道」は遠敷から京都の貴船、上賀茂、下賀茂、伏見神社、奈良の石上神宮を経て東大寺に達し、さらに和歌山熊野奥社玉置神社まで一直線で連なっているのだと。

上記の京都の神社は、既に、全てお詣りをしていますが遠敷を愛する身としては、「陰陽師」のストーリーに沿って、いつか「水の道」を辿って、お詣りするというのも面白いかと、ひそかに実現を目論んではいます。

今日の集合は中央線日野駅。駅前で、準備体操をして出発します。

三鷲山大昌寺

コースは下記の通り。

如意山宝泉寺

臨済宗建長寺派。元徳年間(1330年頃)、鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚が創建、とされる。先に記述した日野出身で、鳥羽・伏見の戦いで没した新撰組六番隊長井上源三郎のお墓がある。

八坂神社

多摩川で拾われた牛頭天王象を勧請して創設されたと(創設年不明)。応永5年(1398)、牛頭天王社監理の普門寺が開基され、元亀元年(1570)現在地に遷座。

安政5年(1858年)に日野宿、天然理心流3代目宗家近藤周助(勇の養父)と勇、沖田総司を始めとした門人の名前を連ね、奉納した天然理心流一門扁額がある。(非公開ですが、ホームページに行くと確認できます。)

日野宿脇本陣跡(下佐藤家)

日野宿本陣跡

土方歳三の姉、のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎家(下佐藤家)は代々、甲州街道の日野宿脇本陣が置かれ、日野宿問屋(宿場責任者)を務めた家であった。

下佐藤家の一角に近藤勇等、新撰組の一派が集った天然理心流の道場があった。

日野宿は、宿場の規模は大きいものではなかったが、多摩川の渡し場を管理するなど甲州道中の重要拠点にあたり、幕府に運営を任された上佐藤家、下佐藤家の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統が続いた。

日野宿脇本陣跡

本来、上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣として利用され、軒を接していたが、双方とも焼失し、下佐藤家の彦五郎が明治元年に、現存する脇本陣を再建した。

表の看板に、日野市の「本陣跡」の表記と東京都の「脇本陣跡」の標示が並立し、混乱します。

本陣、脇本陣が軒を接していたということであれば、このエリアが本陣、脇本陣を含んだ「本陣跡」であり、現存する建屋は脇本陣、という風な説明になるのかと。

田村山安養寺

…それにしても、なんか都と市の両者があからさまに、意地張り合っているようで、笑ってしまいます。

甲州街道中に現存する本陣建物は、日野宿本陣を含めて小原宿本陣(神奈川県相模原市)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の三箇所、ということです。

田村山極楽院安養寺

安養寺は真言宗智山派の寺院。かって、高幡不動尊金剛寺の末寺であった。その創設に関しては詳細な歴史は明らかではないようです。

石田寺

武蔵の国に勢力を持っていた武士団・武蔵七党のうち、西党由井宗弘の直系である田村氏の開基、また、田村氏の居館跡であった、田村山の名前は田村氏に由来する、とも伝えられていると。

Wikipediaを見ると、武蔵七党としてあげられる武士団は、文献により異なり、関連する武士団は9つに渡るということで、七党と無理に括るのがおかしいのかもしれません。

ちなみに、武蔵七党にリストアップされる武士団は横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)、綴党、私市党の九党ということです。

田村氏の出た西党はどの文献でもあげられており、なかでも有力な武士団であったことは確かなのでしょう。

高幡不動尊(金剛寺)

平安時代、武蔵国には台地が広がり、牧畜に好都合で、関東に多かった帰化人が馬飼部として牧畜に携わり、多くの牧(まき)が設けられていた。

「牧」の管理者達が指導者となり、多くの中小武士団が生まれ、彼ら武士団は、朝廷、軍事貴族、それらと結びつく在地の有力武士に動員を求められ、歴史に巻き込まれていく。

「牧」については、5月に朝日カルチャーセンターのツアー、「嶺岡の牧を訪ねる」で安房鴨川に広大な牧が存在していたことを知りましたが、成り立ちについての勉強をもう少し勉強してみたいと思っています。

高幡不動尊(金剛寺)

地方の有力武士というのは、例えば、平将門の血を引く桓武平氏の系統の秩父氏があげられる。

秩父氏は河越氏、畠山氏、高山氏、江戸氏などを輩出し、血縁で固めた秩父平氏を形成していった一派で、朝廷、幕府などと連衡、対立を繰り返しつつ、地元の武士団達を束ね、利用していったのでしょう。

保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で、多くの武蔵野武士団が活躍し、生産条件の良好な条里地域を根拠地とするようになっていく。

鎌倉期に書かれた『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏におよび、彼らは伝統的な有力氏族と異なり、幕府に従順で、御家人として鎌倉幕府を支えるようになる。

武蔵国を本領とした武士団達は、承久の乱・宝治合戦など戦における勲功の恩賞として、地方の地頭職を得、またあるいは蒙古襲来(元寇)の警備のため、奥羽や西国、九州に移動し、本領を離れて、全国に拡散していったのだそうです。

愛宕山地蔵院石田寺(せきでんじ)

安養寺から石田寺に向かう途中に、土方歳三の生家跡に建設された、土方歳三資料館がありましたが、入り口前で写真を撮るだけで素通りします。

このツアは歩行距離が12~13kmくらいあるので、歩くのに精一杯という感じで、神社仏閣も拝観する時間は少なく、慌ただしくお詣りするだけ。

土方歳三資料館

資料館などでも、休憩場所に指定されていれば時間を取れますが、ほとんどは前を通り過ぎることになります。

色々な場所をさらっと教えていただくと言う意味では面白いのですが、老い先短い身で、再訪するチャンスも少ないだろうし、もう少し、時間を費やしたいし、自分の興味を惹く物があれば、寄り道してみたい。

というところで、このシリーズを最終回まで行って、勉強させていただき、以降は、今まで通りの自分だけのチマチマとした旅に切り替えようかと…

石田寺は高幡不動尊金剛寺末寺、土方歳三の生まれた石田村にあり、墓所が設けられた。土方家の菩提寺は金剛寺なのだそうです。

高幡不動尊 金剛寺

奈良時代、行基の創建と言う説もあるが、詳細は不明。

平安時代の初期に、慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により、当地を関東鎮護の霊場と定め、山中に不動明王をご安置したことを始まりとする。

慈覚大師円仁は栃木(下野、都賀)の生まれで、15歳で叡山に入山、最澄のもとで修行する。円仁29歳の時に最澄が入滅したが、最澄は一心三観の妙義を円仁だけに伝えたと。

円仁はその翌年より、「十二年籠山」に入り、一行三昧を修練する日々を送ったが、籠山六年目のとき、学問僧として、抜きん出ていた円仁は、先輩や後輩のたっての願いを受け、比叡山を出て布教活動に入り、関東、東北を廻る。

2年の布教活動後、叡山に戻るも、全国への布教は続け、円仁がその開山、再建に関わったお寺は全国で600とも、700とも言われている。

善正寺

高幡不動の他、目黒不動龍泉寺、立石寺、中尊寺、毛越寺、瑞巌寺、日光輪王寺、浅草寺….など、東北、関東の名刹が多い。

45歳の時、唐に渡り9年半、修行を続け、多くの経典、曼荼羅を持ち帰り、高く評価され、帰国後、天台宗第三世座主に任命される。

円仁が唐における生活を記した『入唐求法巡礼行記』は日本人の旅行記として優れて貴重なもので、外国からも注目されるものなのだそうです。

と、高幡不動から離れてしまいました。

高幡不動尊は杉並区に住んでいた小学校低学年の頃、お詣りしたことがあるかも知れないのですが、記憶にある中では、初めてのお詣りになります。

駅前から参道への賑わいは新勝寺を思わせます。関東三大不動と言う言い方があり、これも色々な説あるらしいのですが、成田不動尊と高幡不動尊両者は必ず入るのだそうです。

実はこのツアに並行するような形で、テレビドラマ、『地味にスゴい!校閲ガール・河野悦子』を楽しみに見ていました。

ドラマの中に、多摩川にかかった立川、日野を渡す立日橋を、何故か大物作者が、「立田橋」とこだわる挿話があったり、高幡不動尊の土方歳三像の刀の石突きにハートマークがあったりとと、歩いているエリアに関連する筋立てで、「河悦」が現場検証して歩くのが面白かったです。

有王山地蔵院延命寺 日野七福神の「寿老人」が居られる。お隣に良さげな日枝神社がありましたが、素通りします。

大久山善生寺 日野市唯一の法華宗のお寺なのだそうです。大きなお釈迦様が居られました。

黒川清流公園

黒川清流公園 浅川の河岸段丘の崖線からの湧水地にできている公園。昔は一面が湿地帯であったようですが、住宅街と街路が狭まり、本来の川は暗渠となり、途切れています。

国交省の水の郷百選に選定されていることは前記しましたが、東京都が2003年に、水量が多いこと、景観に優れていることを基準として「東京の名湧水57選」を選定しており、この中にも「黒川湧水」が含まれています。

予定の訪問地を終え、ひたすら豊田駅を目指して歩き、駅改札で次回はここで集まりましょうと、解散しました。

※脚注

湧水を調べようとしたら、環境省の「湧水保全ポータル」サイトがスゴイです。

自分が色々廻って来て、少しは知った気分になっている、福井県でも、例えば、敦賀の湧水が数多くリストアップされているのですが、知らないところが多くて、ガッカリしてしまいました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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