All of Me

“All of Me”は多くの人が歌っていて、以前から好きな唄でしたが、この動画を見て、 いまさらながら、Billie Holidayの唄に嵌ってしまいました。

いつもなら、ここで調べて、色々書くところですが、にわかファンの自分には恐れ多くて、Billie Holidayを語る資格はない、という感じです・・・

You Tubeで色々聴いているとますます、のめりこんで行ってしまいます。

All of Me

廉価版のJAZZ CDでベスト盤をもっていたのですが、もう少し体系だてて、CDを漁ってみようと、Amazonでまず第1弾を注文してしまいました。
 
日本語版のWikipediaでもかなり彼女の生い立ちと死に至る壮絶な人生が記載されています。


以下はWikipedia ビリー・ホリディ記事

「ビリー・ホリデイ(エレオノーラ・フェイガン)は1915年にフィラデルフィアで、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(同17歳)の元に産まれた。

しかしながら、実際はクラレンスとサディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを認知しようとさえしなかったとされる。

父クラレンスはジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。

When You’re Smiling

そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭で育てられたが、サディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。

サディは転職を繰り返しつつ、売春を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽なものではなく、従姉に暴力を受けていた。

やがて学校へ全く通わなくなり、1925年1月に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であるとされ、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた。

10月に仮釈放の身となったエレオノーラをサディは手元に引き取るが、相変わらず外泊が多く、1926年クリスマス・イブにエレオノーラは近所の男性に強姦されてしまう。

Fine And Mellow

エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、「良き羊飼いの家」に再送致され1927年2月まで生活した。

1928年にサディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始めるが、1929年には母と共にエレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置される。

エレオノーラは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになり、以降、様々なクラブで仕事をするようになり、ハーレムの著名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。

15歳になった彼女はクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。

その後ボビー・ヘンダーソンと組み、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回っていた。

Strange Fruit

1933年、コロムビアレコードのプロデューサー ジョン・ハモンドは、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。

彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、もう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画。「Your Mother’s Son-in-Law」と「Riffin’ the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。

ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれ、その中にフレッチャー・ヘンダーソン楽団のサックス奏者レスター・ヤングもいた。

ビリーとこのレスターはすぐに意気投合し、レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼んだ。

1935年7月、ジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードでビリー・ホリディのレコーディングを実施し、作品はその年のベストセラーに輝いた。ビリーは母サディに小さなレストランを経営させるようになり、明け方には朝食に立ち寄るようになったという。

テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。

Blue Moon

ホリデイの歌のスタイルは、ベッシー・スミスたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。

ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。

しかしながら、彼女に対する人種差別は消えず、地方巡業を途中で切り上げざるを得なくなることもあった。南部の州では、黒人であるビリーは楽団と一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。

ニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続け、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「カフェ・ソサエティ」での専属歌手として活動することになる。

彼女の酒量は増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになり、レズビアンとの関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。

Don’t Explain

1937年3月、巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスがダラスで死亡。ダラスは南部で最も人種差別の激しい地域の一つであり、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された挙げ句の死であった。

ホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。ダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。

1939年3月、ホリデイはルイス・アレンという若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。

以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。

1941年にホリデイは1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。

これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける一方、彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。彼女はアヘンやコカインに沈んでいく。

What a Little Moonlight Can Do

また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。

1945年にツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』が企画されたが、巡業が始まってしばらく経った頃、母サディの訃報が逝去、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。

1947年、大麻所持により逮捕。8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなる。

レコードの売れ行きは順調で、1944年にはデッカと契約、1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。

同時期にホリデイはアイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた「Lover Man」「Good Morning Heartache」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie’s Blues」「Don’t Explain」「God Bless The Child」などの楽曲を作曲した。

Gloomy Sunday

同じ頃、今度はLSDに手を出し、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕、懲役1年の刑に処される。以降も彼女のスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれた。1948年3月に出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。

ニューヨークでの労働許可を没収され、クラブで歌うことを禁止され、舞台でのコンサートは可能であったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難で、仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。

その後、ヨーロッパツアを成功させ、帰国後の公演でも、レコーディングでも名をなすが、ヘロイン漬けの生活が続き、麻薬による逮捕を繰り返し、なによりも彼女の躰が麻薬で蝕まれていく。

1959年5月、彼女は自宅で倒れ、肝硬変、腎不全んどの診断をされる。入院中に彼女のベッドから白い粉が見つかり、警察の監視下に置かれることになる。

同年、7月、麻薬依存症薬のメサドンの薬効で回復の兆しが見えていたが、急変し、7月17日逝去した。享年44歳の若さであった、


Billie Holiday “All Of Me”
AZlyrics.com

All of me
Why not take all of me
Can’t you see
I’m no good without you 
Take my lips
I want to loose them 
Take my arms
I’ll never use them
Your goodbye left me with eyes that cry
How can I go on dear without you
You took the part that once was my heart
So why not take all of me 


All of me
Why not take all of me

Can’t you see
I’m no good without you 
Take my lips
I want to loose them 
Take my arms
I’ll never use them
Your goodbye left me with eyes that cry
How can I go on dear without you
You took the bestSo why not take the rest
Baby, take all of me