ボーボリ庭園

ヴァザーリツアを終えて外に出ると解散となり、ガイドのエリザベスさんとお別れになります。

ツアの最初にボーボリのチケットを渡されていました。

ブオンタレンティの洞窟(工事中でした)

要するにヴァザーリツアに、ボーボリ庭園の入場券が付いているだけで、ヴァザーリツア後は御勝手にということらしい。

そういうことなら、急ぐ必要なないなと、ボーボリの入り口を確認して、ピッティ宮殿広場前にあるカフェで一休みして、ランチします。

ピッティ宮殿

ツアで一緒だったアメリカ人らしい夫婦も同じカフェで食事をしていました。

ボーボリはピッティ宮の庭園で、総面積は45,000m2、イタリアで最も優雅で、広大な庭園といわれるのだそうです。

ボーボリからドゥオーモ方面

ピッティ宮はメディチ家に対抗していた、銀行家ルカ・ピッティがメディチに負けない建物をと1457年に建設を始めたのだそうです。

メディチ家への陰謀を追求され、宮殿建設は中断、ルカ・ピッティは宮殿の完成を見ることはなかった。

ピッティ宮殿

1549年、メディチ家のコジモ1世が病弱の妻、エレオノーラのために、放置されていたピッティ宮を買い取り、建設を完成させ、ウフィツィ、ヴァザーリ回廊などの建設を行った。

メディチ家のものとなった宮殿の名前にピッティの名を残したことに、メディチ家の余裕と皮肉を感じます。

ボーボリ庭園

ボーボリ庭園に関しては、1550年ニコロ・トリボロの設計で、庭園の建設が始まった。

建設開始後、間もなくトリボロが亡くなり、回廊に名前を残している建築家、彫刻家のジョルジョ・ヴァザーリなどが、建設を継続。

ネプチューン像

本来のボーボリ庭園はピッティ宮殿の裏側を南側に一直線に階段状に登り、ネプチューンの像、さらに現在の最上位にある「豊穣の女神像」に至るものであった。

「豊穣の女神」は後世にすえられたのもののようですが・・・ここが市域の境界にあたり、これ以上南に広げられなかったということらしい。

陶器博物館

17世紀に西側に連なる広大な斜面の土地を取得、庭園が増設され、何段階かの変遷を経て今にいたるのだそうです。

庭園の主役は水であり、花は目立たない脇役に追いやられているのだと、確かに花が目立ったのは陶器館の庭だけだったような気がします。

陶器博物館庭園

そもそものボーボリ庭の目的がコジモ1世の水道事業の成果を誇示することを目的としていたのだそうです。

チボリの丘、ジネブラ(Ginevra)などからフィレンツェに引いた水道が、現在、ネプチューン像が置かれている養魚池に導かれた。

ボーボリ庭園

調べても解らなかったのですが、参考文献にはある、チボリはローマ近郊?、Ginevraはジュネーブ?と解釈できるけど、信じがたい・・・フィレンツェ近郊の地名なのだと思います。

昨年行った、ポン・デュ・ガール等のローマ帝国のローマ水道はWikipedia に一覧がでていて、最長で70km程度だったようです。

ボーボリ庭園

ローマ水道の様な、石造りの水道と異なり、1000年の時を経て、工事方法も変わり、フィレンツェの水道はテラコッタ(素焼粘土)あるいは鉛の配管で構成されており、工事はより容易だったのとは思いますが・・・

養魚池に導かれた水は、当時、下段の円形劇場の中央に置かれていた、オケアヌス像の噴水で空中を舞い、ピッティ宮殿を潤し、フィレンツェの市内へ給水されたのだと。

17世紀に至り、コジモ1世の引いた水道も時を経て、漏水がひどくなり、おりからのチフスの蔓延に対する衛生上の要求から、新たな水道の構築が必要となります。

時のトスカーナ公フェルディナンド2世はコジモ1世が水源候補の一つとしてあげていたフィレンツェ近郊を水源とした新水道を完成させます。

オケアヌス像

新しい水道はフィレンツ北部から、市内に入り、ピッティ宮殿、ボーボリ庭園に達するものであったが、水位の関係から、ボーボリの高い位置にある噴水をまかなうことはできなかったのだそうです。

また、メディチ家のフィレンツェの主君であるという面子があったのでしょう、新水道は市内を通って、ピッティ宮殿に達していた事実を隠し、ボーボリからピッティを通り、市内に供給されると発表していたのだそうです。

※ボーボリ庭園について、「ボボリ園-メディチ家コジモ一世に始まる宮廷の庭」岩切正介帝京大教授(帝京国際文化20号(2006年))を参考にしました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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