敦賀0919 敦賀博物館

前回にも似たような写真を載せましたが、旧笙の川の船溜まりです。

旧笙の川
旧笙の川

橋を渡ると新しくなった水産卸市場があり、通りを挟んだところに「越前ガニ」の名付けの親、「相木魚問屋」さんが・・気風のいい女将さんがてきぱき客をあしらいます。

魚市場建屋
魚市場建屋

以前、3月の漁が終わる頃にズワイが安くなったという新聞記事で、実家に送ろうと相木さんに行きました。

女将さん、「今日は漁が良くなかったから、勧められない、明後日きなさい。」って、おかげさまで本当に良いカニを安く手に入れて家族に送り、大喜びされました。

相木魚問屋
相木魚問屋

何の警戒心もなく道路で・・・

お休み中
お休み中

お休み犬の裏手に「蓬莱客館あみや」さん、大宴会の末席を穢したことがあります。申し訳ないことですが、料理の記憶より、主賓の席がはるか遠くにある大広間が印象に残っています。

あみや旅館
あみや旅館
あみや旅館
あみや旅館

第3日曜日なので相生の朝市の日でしたが時すでに遅く、もう片付けの最中でした。陽射しがきついので天幕を張ってアーケード代わりにしていたようです。

清明の朝市宴の後.
清明の朝市宴の後.

相生は古い街が残っていて、雰囲気のあるところです。

紙わらべ資料館には紙人形の作者の方が来られており、ご婦人たちが熱心にお話しを聞いていました。風雅を解さない「くま」は人形よりも、建物の方に気が惹かれて・・・

紙わらべ資料館
紙わらべ資料館

館内は撮影禁止なのですが、人形は入らないように、箪笥になっている階段を・・・というより撮影禁止を言われる前に撮ってしまっていました。

紙わらべ資料館
紙わらべ資料館

少し離れたところに、以前三日市町という呼称だったのでしょうか、説明版が。

三日市町説明
三日市町説明

突き当たりに「福寿杯」の敦賀酒造さん。

相生町敦賀酒造
相生町敦賀酒造

右にちょこっと曲がれば清明神社ですが、今回はパスさせてもらいます。

清明神社
清明神社

たどり着いた市立博物館では下記ポスターの展示をしています。前期、後期に別れていて、後期が11月14日までのようです。

近世敦賀の幕開け~吉継の治めた湊町~
近世敦賀の幕開け~吉継の治めた湊町~(敦賀市博物館

一階フロアがテーマの展示会場で、西小学校から発掘された敦賀城の礎石の一部が展示されていました。周囲には敦賀の歴史を語る説明が並びます。

この展示会の図録集を1,000円で頒布予定ということで予約しましたが、つい最近届きました。ところどころに解説記事があり、その中に吉継に関しての記述がありました。

大谷吉継に関する資料は極めて少ない様で、吉継の出自自体が豊後の大友家の家臣説、近江の大谷家説で別れていたそうです。

敦賀市博物館
敦賀市博物館

図録集によると吉継の母、東殿が秀吉の母、大政所(他の資料では、秀吉の正室、高台院(ねね、北政所)となっています。)の側近であったこと、京都青蓮院の坊官、大谷家の系列に吉継の名前があることなどが判明してきて、近江説が有力な方向にあるとのことです。

茶会で吉継が業病の膿を落としてしまった茶を皆が嫌う中、三成が飲み干したことに恩義を感じ、三成と運命を共にした、という有名な話があります。真偽のほどはどうなのでしょう?

敦賀市博物館
敦賀市博物館

また、吉継は家康の時勢がくることを感じ、家康に近づきながら、最後には義理、友情に殉じて、三成を援けたとされています。

これも一国の領主として、家臣、領民を顧みず、自分一人の心情に従うということが在り得るのだろうかという思いがあります。

図録集では、これらの通説に与せず、「茶会の話は史実と見るには出来すぎている。また、吉継は情に流されたのではなく、三成の目指す未来に共鳴し、冷静に勝利を計画していたのではないか」と記載されています。

大和田銀行創始者 大和田荘七翁
大和田銀行創始者 大和田荘七翁

全てを見通していながら、義を重んじ、止むを得ず三成を援けた・・・

という点が人気が高い所以なのだと思いますが、自分には図録集の説明の方が、現実的な見方のような気もします。
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<永賞寺には誰も居らず、供養祭どころではありませんでした>

吉継に関連する本をその他にも何冊か読んで(あるいは読みかけて)いますが、通説から踏み込む話は少なく、未だに吉継の人物が良く判りません。

永賞寺
永賞寺

吉継は物資の調達、運搬などの計画や管理、領地となった土地の検知など、調査に長けており、前線に立つよりも裏方として後方支援をすることが多い能吏としての才が輝いているようです。

真偽は判りませんが、【小説】大谷吉継(菅 靖匡著)では賤が岳の戦の大勢を決めた「美濃(大垣)大返し」において、軍装備を別送にして、足軽達を身軽で走らせたり、明々と松明を並べて夜の行軍を容易にするなどの差配を吉継が仕切って、大きく勝利に貢献したとしています。

永賞寺
永賞寺

また、長浜城の柴田勝豊を調略したこと、関が原の前には前田利長を巧みに牽制して参戦を遅らせたこと等、権謀をもった戦略をこなす将としての資質も持つ人間でもあったようです。

これも真偽はどうかと思うのですが、秀吉が 吉継の武将としての資質を絶賛し、「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と言ったという話もあるそうです。

この言葉が真実として、これはむしろ、吉継が前線に居る事が少ないことを惜しむ言葉と言えるのでしょう。病のために前線に立てず、でも、その才能が前線を支える側で発揮されていることを評価したと言えるのではないでしょうか。

永賞寺
永賞寺

戦国時代、有力武将達は娘、妹などを嫁がせて、親族姻戚関係というかお互いに人質を取り合うような関係を形成していたようですが、吉継は真田信繁(幸村)に娘を嫁がせています。

吉継自らが、戦国武将の中で、大きな頂になる時代がくることを想定し、布石を置きつつあったという面もあるのでしょうか?

結局は、打克てぬ業病の壁に体力と気力を制約され、旗頭となることかなわず、一歩引き下がった立場で、盟友の三成に自分の夢を預け、支えることに徹した・・・

伊達政宗が遅れてきた英傑なら、吉継は病魔に阻まれた知将・・・などと、浅薄な知識で勝手な想像をしてしまいました。

吉継は一時家康に近づいていたにも拘わらず、結局は相対する立場となるわけですが、家康をどう考えていたのか?と言うことに非常に興味を覚えます。

家康を天下を取れる人間と判断して近づいたのか、家康の人柄、論理等個人の魅力に惹かれたということなのか、家康が自分を評価してくれるので、などなど・・です。

実は【小説】大谷吉継は読みかけ中なので読み終わってからまた感想を述べたいと思います。

永賞寺
永賞寺吉継慰霊碑

想像ついでに・・・戦国の世が終わってからが真の吉継の力の発揮どころではなかったのでしょうか?

吉継は伏見城築城に際して、北方諸藩が送り出す秋田杉を敦賀港で受け取り、陸路で京へ輸送することを担当したそうです。

吉継の戦争支援で磨かれたロジスティクスの能力を生かして、敦賀を日本海側と京都を結ぶ重要な流通の拠点として盛り上げ、藩の経営を向上させ・・・疋田の舟川も挫折せず、琵琶湖まで貫通させていたかもしれません・・・って、飛躍しすぎですが・・・

博物館を後にして、昼飯をどうしようかなと思いましたが、近くのヨーロッパ軒はちょっと重そうで、もう少し歩こうと・・

たどり着いた永賞寺は人が居らず、少なくとも今日は供養祭をやる雰囲気ではなさそうでした。
またまた続きます。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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