三国0925 森田銀行

今朝(10月10日)起きたら、野坂に雲がかかっておらず、朝日が輝いています。

野坂朝日
野坂朝日

慌てて、仕度をして出発しましたが、なんのことはない、一の岳を越えたところで大雨に・・・傘を差しても突き破る様な大粒の雨に襲われました。

「野坂山一人旅」さんが擦れ違い様、「天気になるはずだったのに・・・」と呟いておられました。

カエルだの、沢ガニだのが雨を喜んで出てくるのに遭遇して面白かったですが・・・

これで、野坂山3回分、敦賀歩き1回分、出張の時の大阪城、三十三間堂など、写真が溜まる一方です。

ということで三国の続きです。

旧森田銀行本店
旧森田銀行本店

岸名家の隣の「町家館」で写真パネルを見せていただき、外にでると、もう岸名家は閉める準備を始めています。残り時間は少ない様です。

三国湊きたまえ通り
三国湊きたまえ通り

さらに三国湊きたまえ通りを行くと大きな骨董品店が、その手前が岸名家や森田家と並んで大きかった豪商の内田本家跡だったようですが、見逃しました。

三国湊きたまえ通り
三国湊きたまえ通り

旧森田銀行本店にたどり着きます。以下はいただいたリーフレットの記事です。

旧森田銀行標示
旧森田銀行標示

『旧株式会社森田銀行は廻船業の衰退を察知した森田家が銀行業に転身を図り、成功して福井銀行、大和田銀行に次ぐ銀行となった。

旧森田銀行
旧森田銀行

この建物は山田七五郎の設計により大正9年(1920年)森田銀行本店として建設されたもので県内最古の鉄筋コンクリート建築物であり、有形文化財として登録されている。』(一部補足)

旧森田銀行
旧森田銀行

山田七五郎は東大出身の建築家で、年代的には小樽で知ったコンドルとその直属の弟子たちの直後の後輩に当たるのでしょうか。

長崎県に就職、長崎県庁、市役所を手掛けた後、横浜市に移り、横浜市開港記念会館等を設計し、パリで行われた万博の日本館設計も行った人なのだそうです。(Wikipedia)

旧森田銀行カウンター
旧森田銀行カウンター

敦賀の大和田銀行は森田家と同様に、廻船業を営んでいた大和田家が銀行への転身を図ったものです。

敦賀銀行および小浜の25銀行(合併当時は敦賀25銀行)を合併し、大阪に支店を持つまでに成長したが、合併を繰り返し大きくなった福井銀行には水をあけられ、やはり国策で三和銀行に合併された。(Wikipedia)

敦賀の大和田銀行本店は昭和2年に建設された鉄筋煉瓦造の建築物で、現在市立博物館として利用されているのは知られていることです。

旧森田銀行は入館は無料で、頼めば説明もしてくれます。というより「説明しましょうか?」と係りの方が積極的に話かけてくれます。館内ではガラス製品の展示もしていました。

旧森田銀行銀行ガラス展示
旧森田銀行銀行ガラス展示

説明を受けて感激したのは漆喰の天井装飾と木部の装飾のこだわりでした。

森田銀行を出て、さらに歩きます。

大野藩が藩の経済窮乏改善のために商社活動を始め、全国に40店舗を展開。三国大野屋はその三国湊支店ということなのだそうです。

旧三国大野屋
旧三国大野屋

船の回漕業者が明治の初めに始めたという宮太旅館。

宮太旅館
宮太旅館

お寺はまた改めて廻ってみたいと思います。

勝授寺
勝授寺

歴史的建造物の舞台裏を見るような気がして写真を・・・歴史的建造物を維持するためには並ではない努力が必要なんだなろうなと思います。

舞台裏
舞台裏

森田本家は「森田」の表札が掛っていましたので、森田家の御子孫が住まわれているのだと思います。

ここまで来て、少し暮れかけてきたのと、駅前に置きっぱなしの車がちょっと気になり、三国湊城址、三国神社、瀧谷寺、みくに龍翔館等は諦め、再戦を誓って引き返すことにします。

ところで、三国詩歌文学館のパネルは街のあちらこちらに立っていました。

全部で何枚あるかはわかりませんが、気になったものの一つにに文芸評論家の濱川博の文章があり、高見順、三好達治以外の三国の文学への関わりを記述しています。

曰く、中野重治、室生犀星が三国に関わりのあること、三好達治と萩原朔太郎の妹、愛子の愛憎の生活を描いた萩原葉子の「天上の花」の舞台が三国であるということ等です。

三国詩歌文学館
三国詩歌文学館

また俳人哥川の説明もありました。

哥川の菩提寺は永正寺でしたが、永正寺の句碑は『稲妻や明かる妻戸にみうしなひ』というもので、お墓は別の妙海寺というところにあり、そこに立てられている句碑が『奥そこのしれぬさむさや海の音』なのだそうです。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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