マネとモダンパリ展

4月16日(金)久しぶりに東京で打ち合わせ・・朝6時10分のしらさぎで出発。新丸ビルにある自分の会社の東京本に10時半に到着します。

新丸ビル
新丸ビル 街画ガイド

東京本社といっても、会議室と作業スペースがあるだけで、近隣県にある本社オフィスから出向いて作業したり、東京のお客やメーカーへ訪問時の合間の作業や打合せに利用したりするユーティリティオフィスになっています。

丸の内口から新丸ビルに歩く間にマネ展のポスターが・・・

午前中の打ち合わせが長引きそうだし、午後からも打ち合わせがあるので、まあ縁がないかなと思いながら歩いていました。

東京本社の皇居を臨む絶好の眺望の会議室で、展望の見えない打ち合わせして、終了が1時15分。

馬場先壕
馬場先壕 街画ガイド

食事をする間もなく、午後2時からの打ち合わせの神田に向かいます。寂しく神田駅構内の立ち食いそばで昼飯を。

午後の打ち合わせはすんなり進み、3時半ごろ終了。お酒を飲みに行くには早すぎて「ルノアール」でお茶して会社の人間と別れます。

ルノアールは昔はどの店もゆったりした大きな椅子で隣の客との間隔も広くて、落ち着いた雰囲気でしたが、久しぶりに入ってみると雰囲気様変わりというところで、なんとなく普通の街のこじゃれた喫茶店に改装されていました。

ルノアールの後、東京に戻り、大丸1階のお菓子売り場で会社の女の子への一ヶ月遅れのホワイトデーを購入。

相変わらず入り口のバームクーへンのねんりん屋さんは大行列です。バームクーヘンで?と思っていましたが、ホームページを見ると、まあ!とても美味しそうです。うーん一回くらい並んでみるか・・・

ねんりん家

東京駅地下街のかりんと屋さん(日本橋錦豊琳)の行列もすごいですが、おそらくそれをしのぐ圧倒的な行列の長さです。

大丸をでて、時計を見ると、まだ4時半。これは「マネ展」行けそうだなと、再び丸の内側に歩きつつ、ポスターを探して開館時間を確認します。金曜日は遅くまで開館しているみたいでたっぷり時間はありそうです。

会場の三菱一号館美術館はレンガ造りの3階建ての建物で美術館、中庭が一体となった落ち着く空間を作り出しています。

三菱村の一角にこういう歴史を感じさせる建物を再現し、美術館にしてしまう・・・いいなあと思います。

三菱一号館美術館
三菱一号館美術館TAB button

箱根のポーラ美術館もそうでしたが美術館そのものが楽しませてくれる感じで入館する前からわくわくしてきます。

ポーラ美術館
ポーラ美術館 2009年5月

展覧会の内容は第1回展覧会の記念として、長い準備期間を要した力作とのことで、マネのモデルの変遷、ナポレオン三世の第2帝政時代のパリ大改造の時代背景の説明などマネとその環境の歴史を判り易く説明しています。

何時もは借りない音声ガイダンスですが、ギタリスト 村治佳織さんが案内するということで、つい借りてしまいます。

下の写真は2007年のパリ旅行の時オルセーで撮影したマネの「オランピア」。目一杯ピンボケです。

オランピア
オランピア

そのときは知らずに撮影しましたが、マネが今までの慣習を破って、明らかに娼婦とわかるモデルとして裸体を描き、物議を醸した絵なのだそうです。

Wikipedeia、三菱一号館美術館のホームページなどよるとパリの大改造とは・・・

エッフェル塔から凱旋門
エッフェル塔から凱旋門 2007年6月

1860年、ナポレオン三世の命により県知事のジョルジュ・オスマンがパリの改造を開始。

改造内容は、複雑な路地を整理して東西に通る大通り、凱旋門付近の放射状の大通り等を通し、交通網の整備を進めた。

凱旋門からシャンゼリゼ通り
凱旋門からシャンゼリゼ通り

またスラム街になっていたシテ島やセーヌ河畔の整備、街灯の増設、ルーブル宮、オペラ座の建設等により、現在のパリの姿は、オスマンにより形成されたということです。

シテ島の通り
シテ島の通り
シテ島のギャラリー
シテ島のギャラリー
ヴェルサイユの庭園
ヴェルサイユの庭園

さらに、上下水道の整備などインフラの整備を進めたことにより、衛生面での改善もされ、疫病に強い街にも変貌したのだそうです。

モンマルトル・テレル広場の石畳
モンマルトル・テレル広場の石畳
凱旋門からのモンマルトル
凱旋門からのモンマルトル

パリの整備は第2帝政(1852~1870)、それに続く第3共和政(1870~1940)の間に5回も開催された博覧会によって加速され、広場、駅の整備などが継続され、華やかなパリに成長して行った。

パルテノン近傍の教会・結婚式終了
パルテノン近傍の教会・結婚式終了

反面に昔を懐かしむ声、貧富の差の拡大、台頭する帝国主義と戦争の混乱による社会不安が広がって行った時代でもあったとのことです。

ラ・メゾンローズ ユトリロ オランジェリー
ラ・メゾンローズ ユトリロ オランジェリー
モンマルトルのラ・メゾンローズ
モンマルトルのラ・メゾンローズ

マネが世の中を騒がせたもう一枚の絵が下の「草上の昼食」なのだそうです。(「オランピア」と同様今回の展覧会では紹介されているだけで実物はありませんでした。)

当時室内でしか描かれなかった裸体を自然の中に置いたことが革命的であったということです。

草上の昼食Edouard_Manet
草上の昼食Edouard_Manet Wikipedia 「エドゥアール・マネ」

「草上の昼食」「オランピア」の発表が1863年ということですから、まさにパリが変貌していく活気と相対した、マネの意識の高揚があったのではないでしょうか。

マネはモネ、シスレー、ピサロ等の印象派の画家と単純に思っていました。

印象派の人たちに影響を与えたが最後までサロン(フランスの官展)への出展にこだわり、印象派展覧会には一度も参加しなかったのでそうです。

サンマメスの曇りの日 シスレー
サンマメスの曇りの日 シスレー※『ボストン美術館展』で購入した絵葉書

印象派の第1回展覧会は1872年に開かれ、全8回開催されました。

今回のポスターとなっている「すみれの花束を持つベルト・モリゾ」をはじめとし、マネの絵のモデルを勤め、またマネの弟子でもあったベルト・モリゾ。

彼女が印象派の展覧会に参加するときに、マネに一緒に行って欲しいと申し出たが拒絶され、袂を分かつことになります。

ベルト・モリゾはその後マネの弟と結婚することになります。

すみれの花束をもつベルト・モリゾ
すみれの花束をもつベルト・モリゾWikipedia「ベルト・モリゾ」

肖像画のモリゾの情熱的で意思の固そうな表情を見ていると、マネに好意を持ちながら、サロンにおける評価を求めてサロンにこだわり続け、画壇の改革に参画する決断のできないマネに見切りをつけ、自分の信条に生きる決意をした女。

と、勝手に考えてしまいます。

ロリアンの小さな港 モリゾ
ロリアンの小さな港 モリゾ  Wikipedia「ベルト・モリゾ」

弟との結婚もマネに対する気持ちの揺らめきとマネへの当て付け・・・そこまで言ってしまうと昼メロの世界に行ってしまいますが・・・ベルト・モリゾの絵も自分の好みの絵です。

マネの絵の中で、なぜか、奥さんの姿を描いた「アルカションの室内」に惹かれました。

色合いと構図の面白さがありますが、奥さんの描き方が突き放しているような気もするし、マネの生活の景色の中に自然に奥さんが溶け込んでいる様な気もします。

アルカションの室内 マネ
アルカションの室内 マネ

鉛色の空が不安な情景を想起させますが、マネの自分の「景色」を表しているのでしょうか?

マネは1870年台末期に体調を壊し、1883年春に51歳の若さで死去します。壊疽で右足を切断して、間もなくのことでした。

下の絵は晩年の1882年にサロンに出展されたものだそうです。この絵も好きな絵です。

フォリー=ベルジェールのバー マネ
フォリー=ベルジェールのバー マネ Wikipedia 「エドゥアール・マネ」

マネの時代の背景と生涯を説明する構成にすっかり影響され、いつも絵を見て考えないようなことを随分考えてしまいました。途中でお客さんから電話が入って焦ったのを除くと、平日でゆっくり見れたし、会場の雰囲気も、企画の内容も大満足の展覧会でした。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA