はじめの一歩

我が家だけだったのかもしれません。父が工作好きだったこともあると思いますが、我が家のAMラジオは、専用の吊り棚に大事そうに置いてありました。小学生の自分でも操作できる高さで・・

真空ラジオ真空管ラジオ 「アンティークラジオ展示会」

小学4年の時に我が家にテレビが来ました。使用しないときには埃避けのカバーが掛かっていて使用するときにはそのカバーを開けてみることになっていました。

似たような画像をさがしましたが、ちょっとありませんでした。昔のテレビは木目調というか、茶色のものが多かったような気がします。

テレビ

テレビがきたのが日曜で、その夕方、大村崑と佐々十郎の「やりくりアパート」を見たことを記憶しています。

三輪トラックのミゼットの宣伝で有名な番組 です。

ミゼット

我が家にテレビがくるまでは、年末に近所の家に呼んでもらって紅白歌合戦を「観戦」したりしていました。

自分がその頃どんな音楽が好きだったかは記憶にありません。

3年生の時に「お風呂」が家の中にある集合住宅に引っ越しましたが、それまでは家に風呂もなく、銭湯に行っていました。

テレビも風呂もない生活だったということです。

父は巨人、力道山、卵焼きの人で・・・相撲はまだ大鵬ではなく、鏡里、吉葉山の時代だったと思います。

金曜日に、父と一緒に銭湯に行き、帰りに蕎麦屋に寄り、三菱ダイヤモンドアワーの力道山を見ていました。

力道山

風呂はご飯の後だったと思うので、かき氷とかを食べていたのだと思いますが・・・

その後、父は川上に追い出されたも同然の水原に同情して、アンチ巨人となり、水原が流れた東映フライヤーズファンになり、駒沢球場に通うようになりますが・・・

集合住宅が今で言う池尻大橋にあったため、駒沢が近かったということもあったかもしれません。

プロレスを見ていて、子供心にいつも時間どおりに終わるのがすごいなあと思っていました。生放送で力道山が残り時間を見ながら相手を倒していると、本気で信じ込んでいたんだと思います。

力道山

テレビと力道山ではなく、ラジオの話でした・・・

テレビが家に来ても、まだテレビの放送の時間が限定されていて、今のように朝の時計代わりに見るような番組はなかったのか、あるいは朝の忙しい時に見るものでないということだったのかもしれません。

朝はテレビの出番はなく、ラジオがほとんどでした。

小学5年あるいは6年の時だったと思います。朝のラジオからブラザース・フォアの「Green Fields」が流れました。

Brothers Four

今まで、唱歌と大学のダンス部に属していた兄の聞くラテン音楽と父の愛する演歌が周りにありましたが、あまり興味がありませんでした。

「子供は外で遊ぶことが本業」を実践していたので、音楽が入り込む余裕もなかったのかと思います。

ペレス・プラド

その屋外派の心に「Green Fields」は沁み入りました。

「Once, there were green fields ・・・」というOne wordずつ区切るような歌い方の出だしは今でも格好いいなと思います。

ミッチ・ミラーのTV番組で唄っている「Green Fields」です。

兄が自分も興味のある物を買って来いと金をくれたのか?自分のお小遣いで買えたのか?覚えてはいませんが、当時は色んなヒット曲を雑多に集めた楽譜本が売られており、そのうちの一冊を買ってきました。

「Green Fields」とともにやはりブラザーズ・フォアが歌っていた「Greensleeves」も載っていました。

兄の好きそうな「ベサメムーチョ」、「ある恋の物語」とかのラテン音楽からミュージカルから

トリオ・ロス・パンチョ

「南太平洋」の「バリハイ」とか「魅惑の宵」とかの映画音楽が載っており、(なんという選曲センスかと思いますが)歌詞の英語やスペイン語にカタカナの振り仮名が振ってある譜面集でした。


それらの歌をカタカナで覚えつつ、アメリカのフォークソングに興味を持つようになりました。

と言っても「ステレオ」というレコード再生機器が我が家に登場するのは高校1年の時ですから、まだレコードを聴く手段もなく、ひたすらラジオで聴くだけだったのですが。

中学に上がってキングストン・トリオ、 PPM 、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン・・・などと知り始めましたが、ブラザース・フォアは最初のインパクトがあり、その後も「Four Strong Winds」「7つの水仙」などヒットも多く、一番親しみがあったグループでした。

フォークのイメージはアコースティックギターや、バンジョーとアコースティックベースというイメージでしたからボブ・ディランがエレキギターを使いだしたとき、批判するファン達もいました。

自分も昔は音楽に関しては結構保守的な人間で、「今まであるもの」からなかなか抜けきれず、Newディランには付いていけない派でした。

大学に入ると様変わりとなり、音楽は何でも来いの状態になりましたが、ディランのバックでやっていたThe Bandはその後単独に活躍しており、力強く、泥臭い音が好ましく、むしろ好きなグループに入ってきました。

ザ・バンド


ディランの「電化」に付いていけなかったように、フォークに拘泥して、ビートルズの登場にもちょっと抵抗していました。

おれはフォーク派・・・ってなことですが・・ラジオの音楽番組は昔、リクエストでベストテンを付ける番組が多かったのですがそれらの番組のベストテンの半分がビートルズの出したアルバムからの曲を占める状態になり、フォークがラジオから流れることが少なくなりました。

beatles

話は変わりますが、中学時代、高校入試に音楽は必須で、入試ではクラシックの楽譜を見て曲名を答えるという問題が必ずあり、そのため、音楽の授業では名曲のレコードを聴く時間がありました。

楽譜を読むなどという離れ業は自分にとってはありえず、必死に曲を覚えました。

メロディが判れば、頭の中で唄って音符の上下と長さを追うことで、大体の曲は判ります。

クラシックを覚えようと何回も聴いていると、クラシックもいいなあと思いだすようになりました。

高校1年で「ステレオ」が来たときの一番最初のレコードはドボルザークの「新世界」でした。

クラシックは、その後、兄が買ってくれたものと思いますがベートーベン交響曲全集とモーツアルト、ハイドン等の名曲全集が家にあり、聴いていました。

よく覚えていませんがヒット曲はラジオで聴けるのでレコードで買う必要がない・・という様な論理でレコードはクラシックが多かったのかと思いますが、まあ、お小遣いの少ない身分で好きなレコードを買うことも出来なかったのだと思います。

大学の初期にバロック喫茶に通ったりしましたが、だんだんと「ロック」が頭の中を占め始めて・・・じっくりクラシックを聴くという頻度が少なくなってきました。

話が戻ります。

高校にあがった時、クラスにビートルズは許せんと言ってる男がいて、聞くとプレスリーのファンだったのにビートルズに追いやられた・・・ということでした。

似たような感覚を持つ奴がいるなと思いましたが、かたくなな姿を見ててこれはいけないなとわが身を振り返ります。

Elvis Presley

ラジオで聴くことが少なくなって、しばらくして、ブラザース・フォアが映画「北京の55日」のテーマ音楽をコピーしたものが流れてきました。

映画を劇場で観ましたし、伊丹十三が出ていて外国映画に出る日本人がいるんだと感心し、歴史物好きなので映画は面白かった記憶があります。

ミッチ・ミラー合唱団が歌った主題歌も好きでしたが、僕のブラザース・フォアがなぜ・・・という思いでした。

まあ「アラモ」も唄っていましたがあれはなんどなく許せたけど、「北京の・・」はちょっと違うのかな・・今考えると大したことではないように思えますが・・・

高校1年の時(だったと思いますが・・)、ブラザース・フォアの来日公演を見に行きました。

後半になり、乗ってきたブラザース・フォアがビートルズメドレーを歌い始めました。

「北京の55日」に「ビートルズメドレー」か・・・と、操を捧げた男に裏切られるような気持ち(?)・・・というのかなにか、拘りが解消していくきっかけだったような気がします。

その後、ギターでPPMのコピーのマネごとなどしていましたが、フォークにエレキを使うのは普通になってきましたし、バーズなんていうカントリーとフォークの融合でエレキを使う好みのバンドもでてきました。

それ以降はアメリカのフォークに限らず、何でも好きという感じになり、当時はやりの音楽を聞いていたのだと思います。

うちにあったレコードはプラターズ、ベンチャーズ、エンニオ・モリコーネの映画音楽集、カンツォーネなどでたらめだった気がします。ブラザース・フォアもPPMもありましたが・・

高校受験の時から深夜放送がお友達状態になっていました。

当時深夜になると関東のラジオはほとんど終了し、糸居五郎さん1人だけが2時か3時まで頑張っていた時代がありました。

糸居五郎さんのオールナイトニッポンが始まるのはまだまだ先の話だったと思います。

その当時、関西では深夜放送が盛んだったみたいで深夜東京のラジオが寝静まるとFENの向こう側から関西の深夜番組が唸りのように波打ちながら聞こえてきていました。

岡林信康や高石友也などの日本のフォークを関西のラジオ局の深夜放送で知って、密かにファンになったりしていました。

当時無名の尻石友也だった高石友也が岡林のことをラジオで語ったりするのを聴いていました。

岡林信康

拘泥から解放され、ビートルズもこだわりなく好きになってきましたが、ストーンズとかキンクスとか黒い色がする感じのグループも好きでした。

kinks

大学に入ると、周りに音楽の好きな人間が集まっていて、CreamとかZeppelinなど自分の音楽の守備範囲が広がっていきます。

色々分けられていた音楽ジャンルが幅広い意味で「ロック」という言葉でくくられる様な気がしていました。

cream

中村とうようさんが創刊した「ミューミュージックマガジン」という雑誌が我々のバイブルのような存在になり、仲間の話し方が小倉エージさんの文章風になったりしてかなり感化されていたと思います。

幅広い「ロック」の中でもアコースティックなフォークに近い人達は相変わらず好きでした。

クロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)は出会いがアコースティックで、後に加わったニール・ヤングも含め、好みのグループでした。

ちょっと長いのですが伝説の「Woodstock」の時のCS&Nの演奏です。彼らは映画「Woodstock」のテーマミュージックも唄っていました。(一度削除されました。再掲示しましたが、これもあぶないかも・・・)

ニール・ヤングと同じカナダ人のフォーク歌手、ブルース・コバーンの「High WInds White Sky」はその転がるようなアコースティックギターの音と雪のモントリオールの公園のジャケットがマッチした素晴らしいアルバムです。

Bruce Cockburn

ブリティッシュ・トラッドという呼ばれ方をしていたペンタングル、フェアポート・コンベンション、マシューズ・サザンコンフォートなどの話・・・は尽きなくなるので、またの機会に。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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