大澤寺十一面千手観音像

観音の里、高月の「ふるさとまつり」は例年8月第1日曜日に行われます。

「くま」は、2009年に初参加し、石道寺から、当時、コースではなかった木之本の己高閣まで歩き、己翏山に叡山に比する仏教文化が、かつて、あったこと、木之本、高月に残る仏像達がその遺産であることを知りました。

高月市が、長浜市に編入されてからの2010年に、連続して参加させていただきました。

木之本龍頭山大澤寺十一面千手観音
木之本龍頭山大澤寺十一面千手観音

「ふるさとまつり」で知った己高山の登山で、山頂近くにある観音寺(鶏足寺)跡をお詣りして、 己高山仏教文化にさらに触れる機会があり、自分にとって、思い入れが深まる地域になりました。

その後、お祭りのある時期に手術入院などがあり、タイミングが合わず、参加する機会がありませんでした。今年は入院前の時期だし、久しぶりに行ってみようと。

過去2回の参加で大分お詣りを済ませてきたので、今回は限定して回ろうと思っていました。

今回、自分の中での目玉は「伝教大師像(最近では単に大師像と称しているようです)」を再度お詣りして、写真を撮りなおすことにありました。

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「伝教大師像」(慈恵大師良源(元三大師)像)2009年

最初に参加した2009年「ふるさとまつり」から遡る2007年4月のことでした。

千葉と敦賀を往復していながら、渡岸寺の十一面観音をお詣りしたことないなと、特に前調査もなく、とりあえず、高月へ出かけました。

駅に降りて、観音の里のパンフレットを見つけます。

なんと、高月に、こんなに仏像があるのかと驚き、かつ、感激し、急遽、回れるだけ回ってお詣りしていこうと張り切ります。

初期の目的である、渡岸寺の十一面観音をお詣りして、その表情と官能的な曲線に魅せられた後、「伝教大師像」(慈恵大師良源(元三大師)像)まで歩きました。

伝教大師像
「伝教大師像」(慈恵大師良源(元三大師)像)2009年

たどり着いた高野神社には全く人の気配もなく、ひっそりとしていていました。社務所もみあたらず、太子堂の扉は閉じたままです。

お堂の階段に座りこみ、手にしたパンフレットで役場の電話番号を確認して、お訊きすると、渡岸寺、石道寺、赤後寺など、特定のお寺は常時公開されているが、それ以外の仏像については普段は公開していないのだと。

お堂に、役員の方達の名前と電話番号を記載した紙が張ってあるから、そこに電話すれば来てくれるということでした。

唐突になんの基礎知識もなく来た自分が悪いし、役員の方のお休みのところに突然電話をして邪魔するのは忍びない。(実は今回、大澤寺で電話してしまったのですが・・・)

それではと、高野神社から、常時公開されているという石道寺まで歩く元気はなく、いつか目的の仏像の役員のかた達に電話でお願いをして、計画を立てた上で、再訪しようと、あきらめました。

與志漏神社
與志漏神社

駅まで帰る道で芳洲庵に寄り、その疎水の流れる村の落ち着いた佇まいと、主であった日韓友好の絆をつないだ雨森芳洲のことを知り、歴史好きと宗教への思いと相まって、忘れられない土地となるきっかけとなりました。

駅に戻って、ポスターで「ふるさとまつり」の存在を知り、帰ってからネットで調べます。

前記したように8月第1日曜日に「まつり」があり、その日には町民の方達がボランティアでお世話をしてくれて、全ての仏像を公開してくれることを知りました。

2009年に、「ふるさとまつり」に初参加することになるわけですが、思い立ってから2年越しに大師像をお詣りできることになり、感激したわけです。

当時、自分は、カメラを趣味にするまでにいたらず、写真の質より、記録だと考えていましたので、記憶容量300Mで18倍光学ズームのコンデジを使用していました。

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旧戸岩寺 薬師堂

当時、高野神社は写真撮影自由で、カメラ好きの人達が数人、どっかと居座って、カメラの技術論議をしながら、じっくり写真を撮っていました。

自分は仏像を撮るときにはストロボを使わないようにしていましたが、暗いので、ぶれてしまい、なかなか写真にならない。

その人達が平気でストロボを使用するのを見て、自分も何枚か使用させてもらいました。

一眼レフで「大師像」を撮ってみたい。というのが今回の最大の目的であった訳です。

喜び勇んでうかがった太子堂は、以前オープンになっていた厨子の前面に緞帳がかかり、半開きで、お顔が微かに覗ける程度で、大分様子が異なっていました。

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写真を撮る人達が多いので、規制をかけるため、写真を撮れないのは仕方が無いかもしれない。最大の目的ではあったがあきらめよう。

でも、お姿をもう少しはっきり拝みたい・・・それを幸いとして、しばし、抜けがらのごとく、悄然と大師像の御前で座っていました。

とまあ、「くま」の勝手な空振り顛末はともかく、当日3日の朝の話です。

「ふるさとまつり」のシャトルバスの始発は8時半からということで、敦賀発の7時半頃の電車で行けばいいかと思っていました。

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前日、野坂に登って、夜、神楽から五縁まで歩いたことで脚が疲れている、というより精神的に疲れていて、歩き通す自信が失せてきます。

過去2回はシャトルバスの一日券を買いながら、ほとんど歩き回っていたのですが、今日は、なるべくシャトルバスを使って、お詣りするところも限定して行こうと決めます。

そうなると、悪い癖ですが、余裕があるなと動作がだんだん遅くなってきて、結局目的の電車を逃します。

仕方なしに、車で高月まで行き、穴場の駅裏の駐車場に車をおいて、シャトルバスの1日券、1500円を購入しました。

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高月が長浜に編入されたことは書きました。

木之本も長浜市になり、ありがたいことに、おまつりの範囲が広がったようで、以前、石道寺から歩いた、木元の己高閣、世代閣、與志漏神社まで、バスが行くようになっていました。

当初石道寺を今日のスタートにする予定でしたが、予定変更で己高閣から行程を始めることとし、下記の段取りで行こうと。

①バスで己高閣、世代閣まで行き、十一面観音像、魚籃観音をお詣り。

②石道寺まで歩き、十一面観音像にお詣り。

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③高野までバスで行き、大師像、薬師観音にお詣り。

④渡岸寺までバスにのり十一面観音にお詣り。

⑤駅まで歩き、バスを乗り換えて赤後寺の千手観音、聖観音をお詣り。

赤後寺のお詣りが済んでそのときの残った時間と体力で後の予定は決めよう。

バスに乗り込むとボランティアガイドの方があの山が小谷城址、あちらが賤ヶ岳などの説明と高月観音群の歴史などについて説明をしてくれます。

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「今日の「軍師官兵衛」はいよいよ賤ヶ岳ですから、ここら辺の話ができきますよ。」と、タイムリーな説明を。

残念ながら、ドラマには前回の中国の大返しはでてきましたが、賤ヶ岳はさらっと通り過ぎ、「岐阜の大返し」もなく、あっという間に、北の笙での勝家とお市の方の自害となってしまい、空振り気味でした。

ドラマ後に玄蕃尾城址が紹介されて、敦賀の人としては納得ですが、湖北の人たちにとっては寂しかったのではないでしょうか。

以前に読んだ小説「大谷吉継」では「中国の大返し」の成功は豊臣軍の兵站、ロジスティックスを担当していた光成と吉継が人と物の流れをスムーズに勧めたことの功績が大きかったというのがありました。

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自分としてはそういう面もありなん、と密かに思っているのですが、「官兵衛」では全て官兵衛の力によるものとして、軍師の存在を際立たせる形になっていました。

一人の功績ということはなく、官兵衛の指示により、しかるべく人間達が動いたということなのだと思いますが、物語上、そこまで詳細に描く必要もないでしょう。

今、敦賀に住む人間として、密かに来年の真田幸村に期待しています。

幸村の人間像をどのように描くのか、わかりませんが、吉継の娘である幸村の正室が、登場するのか、登場するとして、どの程度の重みをもって描かれるのか・・・

それにしても官兵衛でのお市、内田恭子って、手抜きが過ぎるのではないだろうか・・・あんな調子で描かれるのなら出てこない方がいい・・・

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ガイドさんの説明で気になったのは、叡山の繁栄の遙か前に己翏山に仏教文化が栄えていたんだという説明でした。

己高閣でいただいた説明を引用させていただきます。

己高山寺院群は、神亀元年(724年)に僧行基により十一面観音を本尊として東光山常楽寺を建立したことに始まり、時を経ずして、僧泰澄も入山し、行門を建立したが、時宜を得ず、やがて荒廃した。

延暦18年(799年)、最澄の巡行の際に十一面観音を発見し、伽藍を建立し、 己高山鶏足寺として再興した。その後、隆盛を極め、僧坊120字を要する大寺院となり、浅井家、豊臣家の祈願所としての地位を得ていった。

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満願寺

要するに、歴史は行基に遡るのですが、己翏山仏教文化として、栄えたのは、最澄巡行のあとで、叡山の影響を受けたということではないのかということです。

己高閣の十一面観音様はその伸びやかな肢体からなにか大陸的な匂いを強く感じます。

以前、己高閣にお詣りしたときから、自分の中で通り過ぎた時間と経験が、より深く仏像にすがる気持ちを強めている気がしていて、しばらく御前から動けませんでした。

魚籃観音をお詣りすると世代閣の係の方が、是非、薬師堂、大日堂もお詣りして行けと、勧められます。

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以前に薬師堂(旧戸岩寺)にお詣りしたときには薬師如来は厨子が閉じられていて拝観出来ませんでしたが、今回は厨子が開放されており、格子越しですが、お姿を拝見することができました。

周りを日光、月光菩薩と十二神将が固めておられ、広がりを持った構成はすばらしいものがあります。

失礼な言い方になりますが、こんな山の中の堂宇に迫力満点の曼荼羅世界があることに思い至る人は少ないでしょう。

できれば、薬師堂の中で拝観できるようにしていただけたらと思います。

世代閣の方に教えていただいた拝み方を悪用して、郵便受けのようになっているお賽銭口にカメラを当てて、写真を撮らせていただきました。

赤後寺
赤後寺

「ふるさとまつり」、最近人気がでてきているようで、かなり人が集まるようになってきて、「仏女」というのでしょうか、女性も多く来られているようです。

ちょっとうざいのは多少、年齢の行かれた女性の集団、うるさいことうるさいこと。バスで騒ぐのは良いけど、お寺では静かにお詣りしたい人間もいることを気にかけてほしい・・・

石道寺で高野行きのバスを待つ間、石道寺の観音様を見たくて、人の少ない朝に来ようと一番に来た、という方とお話をします。このあと芳洲庵にいかれるとのことでした。

高野の後に、渡岸寺でしばらく時を過ごします。

どこかで食事をしようかと思いますが、高月駅前には何もありません。ちょっと面倒になって、車で8号線に出て食事をして、赤後寺も車で向かいました。

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観音寺

赤後寺は「コロリ観音」として広く信仰の対象となっているせいか、多くの人が押し寄せていて、落ち着いてお詣りすることができませんでした。

ボランティアの方のおもてなしのスイカを美味しくいただきます。

時間はまだ早いので、「ふるさとまつり」の地図に記載されていた黒田家の祖先が信心していた霊応山観音寺の千手観音をお詣りします。

言い方は悪いのですが、入れ物のお堂と比べて、あきれる程立派なお姿で驚きます。お写真と御朱印をいただき、さあ帰ろうと。

8号線に戻ろうとすると観音寺のすぐ近くに龍頭山大澤寺の表示があります。

霊応山観音寺千手観音立像
霊応山観音寺千手観音立像  購入したお写真を利用させておただきました。

大澤寺は「ふるさとまつり」の範囲には入っていませんが、ガイドさんの説明に十一面観音様の話がでてきていました。

また、賤ヶ岳の戦いにおいて、琵琶湖を横断してきた丹羽長秀の奇襲を知らせるために、佐久間盛政が鳴らした鐘があるんですよということでした。

たどり着いた大澤寺、急激な階段を登っていくと、境内にその梵鐘があり、本堂には連絡すれば開けにくるという張り紙がありました。

ここは上に書いたように、ここは木之本でも高月から遠く離れた地にあり、旧高月の「ふるさとまつり」の範囲からは外れていて、今日の行事とは縁がないということのようです。

大澤寺 梵鐘説明
大澤寺 梵鐘説明

この急な階段をここまで登って来たからには、と電話してしまいます。待つこと15分、世話役の方がこられて、開けていただき、お詣を済ませ、御朱印をいただきます。

写真はご自由にということで冒頭の写真を撮らさせていただきました。

自分の好ましい仏像に全てお会いして満足の一日を過ごすことができました。


【参考:過去の己翏山関連記事】
観音の里
伝教大師像
観音の里’10
観音の里’10 その2
己翏山1126
石道寺、鶏足寺1126

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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