花灯路 清水〜高台寺

ようやく闇が降りてきて、清水寺が光輝き始めます。

今まで何回清水寺を訪れたことでしょうか?10回では効かない・・・20回まで行かない、そんな感じでしょうか?

201303090228それでいながら、清水寺のライトアップは2回目か3回目・・・それも暗くなるのを待ってまで楽しんだのは初めてです。

と、その前に、清水寺についてなにも知らない・・・

201303090226清水寺公式サイトとWikipediaでお勉強をします。
「清水寺は法相宗(南都六宗)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、京都では数少ない平安京遷都以前からの歴史をもつ寺院の一つである。 」

サイトの説明でもWikipediaの説明の双方とも、 「『清水寺縁起』(「群書類従」)による・・・」という記載になっていて、どうも明確な資料があるわけではなく、「伝承」の歴史になるようです。

201303090241201「音羽山清水寺は、宝亀9年(778)に奈良、子島寺の賢心(後の延鎮上人)の開山。

賢心は「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢をうけ、音羽山麓にある滝にたどり着き、滝行をしている 行叡居士と出会います。

行叡居士は賢心に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託し、姿を消します。
201303090239行叡居士は観音の化身であったか、と悟った賢心は、以後、千手観音を刻んで草庵と観音霊地を守ります。」

これが清水寺の始まりとされています。

「宝亀11年(780)夏、坂上田村麻呂公が妻室の安産のため、薬となる鹿の血を求め音羽山に上がり、修行中の延鎮上人(賢心)と出会います。
201303090294延鎮上人は田村麻呂公に観世音菩薩の教えを諭し、観音霊地での殺生を戒めます。

田村麻呂は、教えに従い、観音に帰依して自邸を寄進し、本堂として観音像を祀ったという。

坂上田村麻呂は後に、征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、都に帰る。

201303090300延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮上人と協力し、本堂を大規模に改築、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。

以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願※と位置づけている。」

※【本願】:お寺や、仏像の創立者を言う。通常の言い方では「開基」にあたるのだと思います。
201303090345「以来、1200有余年の間、幾度もの災害戦災にあいながら、その都度、再建・復興を果たしてきた。

現在の伽藍は、徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたもので、平成6年(1994)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。」
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かなり時間をかけて、写真を撮り続けましたが、毎度のことながら、振りかえると大した写真はなくて、まだまだ、勉強不足を露呈します。

清水の舞台でかなり時間を費やして、下におりてきて、いささか疲れたのと、まだまだ歩くので少し腹ごしらえをと・・・

お茶屋さんから出汁の良い匂いがしてきておもわず、中に入り、うどんをいただきました。

201303090456ますます、人通りが多くなる二年坂を下って、高台寺に向います。

通り通りに沿って雪洞を置いたり、ところどころに生け花が置かれていて、各々がライトアップされています。

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ゆっくり写真を撮りつつ行きたいところですが、少し時間配分を間違えて・・・

って、最初から時間配分なんかしてないんだけど、初めて見る高台寺のライトアップが気になって、少し気がせいてきて、先を急ぎます。


高台寺はその名からすぐ想定できますが高台院(北政所、ねね)に関係するお寺になります。清水寺と同じく、公式サイトとWikipediaで確認させていただきます。201303090532「鷲峰山(じゅぶざん)高台寺は慶長11年(1606)開創の臨済宗建仁寺派に属する。正式には高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(出家して高台院湖月尼と号す)が建立した。

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開創当時は曹洞宗の寺院であったが、寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江紹益和尚を開山としてむかえ、臨済宗に改宗し、高台寺と号した。

創建時の造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ない、寺観は壮麗をきわめたという。」
201303090552関ヶ原の戦いでの北政所の立ち位置は微妙で、淀君への反発から東軍寄りであったという説が広く伝えられているようです。
信じがたい話と思っていましたが、最近は間違いであると言う話もあるのだそうですが、この説に従えば、家康が北政所の褒章として高台寺を与えたということがあるのでしょうか。

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秀吉周辺や世間に対する周到な気配りをして、心を和ませ、徳川の世の安泰を図ったというところなのではないかと。
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微かな家康への希望として、かっての秀吉との親交を思いだし、自分を脅かすことがなくなった秀吉を悼む気持ちになったのかと・・・まあ、にわか勉強で勝手なことを言っています。
201303090776「三江紹益を祀った開山堂、秀吉と北政所を祀った霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が創建当時の建物で国の重要文化財に指定されている。

開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられる。

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北政所は慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、寛永元年(1624)9月6日、77才で亡くなられた。」
北政所はどんな女性だったのだろう・・・いつか色んな説を調べてみようと思います。
高台寺に入る時に、チケット購入に行列ができていました。
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高台寺、高台寺掌美術館、圓徳院共通チケットは900円の価格のせいか、行列ができていませんでしたのでえいやと購入。高台寺で終わるかもしれないなと思いつつ・・・

結局高台寺境内でさらに時間を費やし、9時20分になってしまいました。掌美術館は閉館。圓徳院は10時までだけど、9時半までに入ればOKとのこと。

久しく走ったことのない「くま」さん思い切り走ってなんとか間に合いました。

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圓徳院

高台寺圓徳院公式サイトで圓徳院を確認します。

「北政所は高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。これが現在の圓徳院にあたります。北政所は没するまで19年間この地で余生を送りました。

北政所の兄、木下家定の次男、利房は、高台寺の三江和尚を開山として、寛永9年(1632年)、木下家の菩提寺として高台寺の塔頭、圓徳院を開基しました。」
20130309087910時少し前に圓徳院の北書院でぼんやり北庭を眺めているのはもう、自分と外国人のオバサンだけでした。

ゆっくりしていいんですよとのお薦めに感謝しつつ、疲れ果てて、懐古庵への帰路につきます。

途中、居酒屋で1時間半程度過ごし、宿に着いたのは12時近くでした。

お風呂は10時までと言われていましたが、汗を流さずには寝られない・・・静かに、静かにお風呂を使わせてもらいました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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