7日は不在者投票の後、習志野の本社で打ち合わせを実施。
すんません、ほんとは9月まで自分の会社であって、今は自分の会社と契約を結んでいただいている顧客の会社ということですが、つい、自分の会社の様に本社と言ってしまいます。
「帰るの?」という有り難い暗黙のお誘いをいただきながら、今日退院する娘のところに向います。
伊勢原に着くと、娘は既に部屋に戻っていました。
ちょっと顔色は悪いし、痛みが時々襲うらしくて、しかめっ面をするのですが、総体的には少し元気を取り戻した感じで安心します。
父の時にはお前はきついこと言ったんだからな、と、恨み忘れずで、愚痴を言うと、ニヤニヤ笑ってます。
翌日は部屋でのんびりしていましたが、昼過ぎてから、奥さんと阿夫利神社にお礼参りに行きがてら、紅葉が綺麗だと言う大山寺のお参りをしてこようと相談します。
娘も、来週から勤務に付くので、身体を慣らしたいから一緒に行くと行くと。
自分の場合には、退院後、1週間お休みをいただいてのんびりしましたが、職業柄そう言う訳にもいかにのでしょう。
職場も状況を把握していて、働かせようとしているのですから、問題ないはずで、可哀そう、休ませてあげたいと思うのは、親の余分な心配ということになりますか。

それでも、駐車場からケーブルカーの駅まででも、階段を上り続けるので、つらそうだったら、何時でも帰ろうと思っていましたが、さっさと登って行きます。
前に来た時に、お茶屋のおねえさんが奥さんとの写真を撮ってくれたのですが、病院に行く必要があったので、お礼参りの時に寄りますと言って、その場を去りました。
今回、寄ろうと思っていましたが、あのお姉さん、いないし、下りのケーブルカーで大山寺に行きたかったので、結局パスしてしまいました。ごめんなさい。
今回、大山の頂上まで行かなかったので、いつかまた来て頂上に行ってみたいと思います。
大山寺は残念ながら、阿夫利神社より紅葉が早いようで、ほとんど終わりと言う感じでした。まあ、こちらの方が、時期的には正解で、阿夫利神社が少し遅いと言う感じだと思います。
大山寺でいただいたパンフレットと大山寺の公式サイトで縁起を確認すると下記のようです。
「東大寺を開いた良弁僧正(華厳宗)は「相模の国」の生まれで※、晩年に当地を訪れた際に、地面から5色の光が射しており、掘ってみたところ不動明王の石像が現れ、この地を守護していることを告げられる。
良弁は東大寺を辞し、天平勝宝7年(755年)に現在の阿夫利神社の地に雨降山大山寺を開山した。
※以前記事にした「遠敷 鵜の瀬・神宮寺」では良弁は若狭出身になっています。(異説あり、と書きましたが、出自について地元びいきの説が色々あるのでしょう。)
行基の弟子の光増和尚が第2世となり伽藍建設を続け、第3世が真言宗、弘法大師、空海で、多くの霊所を開いたり、阿夫利神社の神水を導くなど寺勢を盛んにした。
879年に全山焼失するが、884年、天台宗慈覚大師の高弟、安然和尚が第5世として就き、伽藍を再興し、これにより、華厳、真言、天台3宗兼学の道場とした。
明治時代の神仏分離により、阿夫利神社に場所を譲り、現在の位置に移動した。」
源頼朝の戦勝祈願、春日の局が家光の世継ぎの願をかけたなどの話が記載されています。
御本尊は1264年に鋳造された不動明王。国宝と書いてあるけど、例の見直しで、今は重要文化財ということらしい。
お参りしているうちに、薄暗くなってきて、大分寒くなってきたので、部屋に帰ることにします。
参道の下の方には老舗風のお豆腐屋さんが軒をつらねています。焼きたてのおせんべい屋さんに行列ができていました。
娘は特に疲れた様子もなく最後まで付き合ってくれました。