6時に神田で食事の約束をしていますので、3時間の余裕を使って、国立新美術館開館5周年記念の「セザンヌ‐パリとプロバンス」展を楽しんだことは既に記載しました。
同僚は新橋で3時半から別の打ち合わせで一旦別れ、六本木から近道を探索しながら3時40分ごろ国立新美術館に到着。
国立新美術館「セザンヌ展」の説明をお借りします。
「セザンヌ−パリとプロヴァンス」展は、「近代絵画の父」と称されるポール・セザンヌ(1839−1906年)の画業を、パリとプロヴァンスという2つの場所に注目して振り返る大規模な個展です。
南仏のエクス・アン・プロヴァンスに生まれたセザンヌは、1860年代のはじめに、画家としての成功を夢見てパリに出ます。
1870年代に入り、セザンヌは、当時世に出た印象派の輝くような明るい色彩に大いに感化される一方、形態と空間の表現に創意を凝らしました。
そして、伝統的なアカデミスム絵画とも同時代の印象派とも袂を分かつ、全く新しい絵画を確立したのです。
1880年代以降のセザンヌは、パリに背を向け、故郷のエクスにこもって制作した孤高の画家と見なされてきました。
しかし、実際には、1861年から晩年に至るまで、20回以上もパリとプロヴァンスの間を行き来していたのです。
フランス南北間の頻繁な移動は、これまで注目されてきませんでしたが、セザンヌの創作活動に決定的な役割を果たしたと考えられます。
本展は、セザンヌの芸術的創造の軌跡を、南北の対比という新たな視座から捉えなおそうという画期的な試みです。」
一つの美術館の休館に合わせて大量に絵を借りると言うのとは異なり、オルセー美術館、パリ市立プティ・パレ美術館を始めとした世界各国から集めたセザンヌが集まっている様は見応えがありました。
東郷青児美術館で見た静物画もありました。
展覧会の趣旨に沿って、各々の絵のタイトルにアンダーラインを引いてあり、パリは青のアンダーライン、エクス・アン・プロバンスにはオレンジ色のアンダーラインが引いてあると言うやり方でわかりやすくなっていました。
ただし、パリとエクス・アン・プロバンスで描かれた絵が画家に対してどういうい意味があり、どのように違うのかということは今一理解できませんでした。
セザンヌは銀行家の父の元、エクス・アン・プロヴァンスに生まれますが、父の後継ぎとしての期待を裏切り、画家の道を選び、パリにでます。
しかしながら、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)への入学を果たせず、サロン(官展)にも落選を続けます。
モネ、ルノアール等の印象派の画家達に才能を認められながらも、世間的に認められずに、失意の中、ピサロの元に行き、共に絵を描きつつ、ピサロの技術と手法を学びます。
1874年の第1回印象派展に下の絵を出展しますが、酷評されたのだそうです。印象派の絵とは雰囲気が違う気がしますが、自分はいいなと思います。
セザンヌは1877年の第3回印象派展に出品した後は印象派と袂を分かち、パリから遠ざかり、エクス・アン・プロヴァンスで画壇と離れて孤独に自分の絵を追求します。
1890年を過ぎるとセザンヌの評価が高まり始め、1904 年にアンリ・マティス等が開いた、サロン・ドートンヌにセザンヌの展示室が出来るまでに至ります。
しかしながらセザンヌは世俗と乖離してひたすら絵の追求をつづけ、1906年、郊外で製作活動中に倒れ、10月23日に67年の人生を閉じることになります。肺炎だったのだそうです。
セザンヌに関わる記述は、ショップで購入した小学館ウィークリーブック「西洋絵画の巨匠、セザンヌ」を参考にさせていただきました。
同誌の中の「原寸美術館」というコーナーに本展覧会で展示されている「リンゴとオレンジ」が取り上げられており、同時に「パリを驚愕させた「りんご」」というタイトルで記事が記載されています。
「ピサロはセザンヌの静物画の完成度の高さに驚く。
そして、セザンヌの静物画に衝撃を受けたのはピサロ一人でなく、印象派以降の新しい絵画の創造を模索する多くの画家たちがセザンヌの静物画のなかに進むべき方向を見出したのだ。
セザンヌの静物画の革新的なところは、一つの視点から描くという原則を打ち破ったことにある。
セザンヌはモティーフは動かないが、自分は動くことができるという当たり前の事実に気づく。
そして 一枚の絵のなかの、一つ一つのモティーフを様々な角度から観察し、各々のモティーフがもっともよく見えるように、それぞれ異なる視点から一枚の絵に描いた。
異なる視点から見た「複数のりんご」を一枚の絵に描いた結果、テーブルがゆがみ、それぞれの位置の前後関係は崩れ、奥行きは錯綜したものとなった。
現実にはあり得ない光景であるが、セザンヌの「りんご」は、写実的に描かれた「りんご」よりも現実感を持って見る者に迫ってくる。
さらに色彩についても説明的な説明は不要であり、色彩どうしが生み出す対比やリズム感などの効果に従い、自由に彩色を付与すればいい。
だから白いテーブルクロスの中にさえ、様々な色彩があふれ、りんごは小さな色彩のタッチの塊りとなる。」
これらのセザンヌの発見とその実践が、ゴーギャン、ドニ、セリュジエ等のポスト印象派の画家の創造を促すことになります。
また、マティスのフォーヴィズムや、ピカソのキュビスムの様式を生み出すための、先駆的な役割を果たしたということになるのだそうです。
さらにセザンヌは「自然の中の全てのものは、球と円錐と円筒によって描くことができる。」という抽象画を予告するような言葉を残しているとのことです。
セザンヌの絵画史上の位置づけについて、高い評価があることを知りました。
もともと、セザンヌについては静物画が好きだったのですが、もちろん、上記のようなことを理解していたわけではありませんでした。
静物画が好きと言いながら、今回の展覧会で一番良いなと思ったのは、夫婦仲は冷え切っていたという奥さんを描いた「赤い肘掛椅子のセザンヌ夫人」です。自分の部屋に飾るためのプリントを購入して帰りました。
また、風景画についても上記の印象派展出品後の作品でいいなと思ったものもありました。
今回は色々な美術館から集められたているため、販売上の肖像権みたいなものが関係するのかもしれません。絵葉書が限定されている様で、好きな風景画については絵葉書が入手できませんでした。
【赤いチョッキの少年発見】4月14日の福井新聞
余分な話になりますが、下記の記事がありました。
「セルビアの警察当局は12日、2008年にスイスの美術館から強奪されたセザンヌの名画『赤いチョッキの少年』と見られる絵画を発見したと述べた。スイスの専門家が鑑定して同作品と確認。
作品は約1億ユーロ(約107億円)の価値があるという。当局は強奪に関与した疑いで、これまでにセルビア人の男4人を逮捕した。
作品は11日に首都ベオグラードで発見された。別のセルビア人が約3000万ユーロで買い取ることに同意していたと言う。
『赤いチョッキの少年』は1888年(?)ごろの制作とされる。(年代はワシントンナショナルギャラリーの立像と勘違いがあるみたいです)
2008年2月、スイス・チューリッヒのビューレル美術館に覆面をした3人組が侵入し、同作品の他、ゴッホ、モネ、ドガの油絵3点を強奪。当時欧州で最大規模の美術品盗難事件とされた。
ゴッホとモネの作品はチューリッヒ市内で発見され、ドガの作品も09年に見つかっていたという。」
大がかりな美術品窃盗団組織があるのでしょうか?逮捕時に2億円近くの現金も見つかったとのこと。取引の情報が流れて逮捕に至ったようです。
それでも、結局は換金することができずに逮捕されたのですから、割の合わない商売と言えるでしょう。