「Frida」

「MOMA 0430」で書きましたが、Frida KahloについてはMOMAで初めて知り、記事を書くために彼女のことを調べて、その絵と人生に魅せられました。

映画「Frida」は2001年に製作され、アメリカでは2002年、 日本では2003年に公開され、複数のアカデミー賞を受賞した映画です。いまだに公式サイトは開かれていて情報の確認ができます。

“La Llorona” Chavela Vargas Fridaの事故のシーンのせいか年齢制限が。YouTubeで見てください。

Frida Kahloは1984年にも映画化されていて、その激烈な人生がドラマの素材として、適していて、人々をひきつけるのだと思います。

実は、Fridaを演じた女優サルマ・ハエックとフリーダ・カーロ自身の写真、フリーダの描く自画像の3つのイメージが重なり合って、自分の中で、時々、混乱します。

”La Llorona”は前回、触れましたが、Frida Kahloの愛した唄の一つとの記述がありました。

「Frida」の挿入歌として使用されており、前回のLia Downsの歌の他に、このChavela Vargasの歌がでてくるようで、当人が実際にでてきて唄っています。

冒頭の動画の唄い出しは明らかに声が違うので、Chavelaの若い頃の歌なのではないかと思います。

歌の最後の方に、現在の御本人がでてくるのですが、声もがらりと変わり、一気に歳をとります。若いChavelaの唄は素晴らしいと思いますが、歳とってからのChevelaの味わい深さもまた、格別です。

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また、この動画は映画のダイジェスト版の様になっていて、交通事故のシーン、「断髪の自画像」の髪を切るシーンもでてきます。

公式サイトに詳細なあらすじが記載されていて、Frida Kahloの人生をたどることができます。下記に転載させていただきます。

大分はしょらせていただきましたが、それでも大分長くなりました。

『1925年9月。悲惨なバス事故がフリーダ・カーロの人生を変えた。

フリーダの乗っていたバスが、路面電車と衝突し、数名の死者と多数の重傷者を出す。フリーダは瓦礫の中から、血にまみれで、鉄棒に突き刺された状態で発 見された。

鉄棒は左臀部から膣を貫通し て腹部に深い傷を残し、また、彼女の背骨、肋骨、骨盤、鎖骨は砕け、右足はつぶれた。もともと小児 麻痺で数年前から不自由だった右脚は、10ヶ所以上が骨折した。

何ヶ月もギブスやコルセットや牽引で 固定され、乱暴な手術が繰り返された。フリーダは悲惨な症状から引き起こされる孤独と寂しさにさいなまれる。

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イバラの首飾りの自画像 1940年 Wikipedia

彼女は絵にその感情をぶつけて時を過ごした。

父は写真家であったが、手術代を工面するために家財を売り払うなど、家計は火の 車であった。

それでも、両親は寝たきりの娘に特注イーゼルを贈り、自分自身をモデルにできるようベッドの天蓋に鏡をつけるなど、フリーダに芽生えた絵画への関心を応援した。

歩けるようになったフリーダは、自分の絵を認めてもらうために、既に有名な壁画家だったディエゴ・リベラを 訪ねる。ディエゴは作品はもとより、若きアーティストの熱心さと美しさに魅せられる。

「そのときは気づいて いなかったが、フリーダはすでに私の人生でもっとも重要な存在になっていた」と、 ディエゴはその出会いについて語っている。

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フリーダにとっては、ディエゴは欠かせない人であったが、酷い裏切りも受けており、皮肉な解釈をする。

「私は人生でふたつの大きな事故に見舞われた。ひとつは路面電車にひかれたこと。もうひとつはディエゴと出会ったことよ。」

1929年8月、惹かれあったディエゴとフリーダはコヨアカンで結婚した。

ディエゴから財政的な援助を得られることになり、余裕はできたが、フリーダの母は、21歳の年齢差や彼の有名な女好き、そして彼の巨体に嫌悪して、二人の結婚に対して心から喜ぶことはなかった。

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写真家のティナ・モドッティ(なんと・・・自分の好きな女優、アシュリー・ジャッドが演じています!!)や壁画家のシケイロス等のアーティスト仲間 も、この結婚がうまくいくか怪しんだ。

1930年、ディエゴはアメリカで壁画の仕事を任されると、フリーダとサンフ ランシスコ、デトロイト、ニューヨークを回り、公共建築から個人邸まで次々と壁画を制作する。

行く先々でふたりは歓迎された。フリーダは故郷メキシコを恋しがっていたが、ディエゴは有頂天になり、数々の情事にふける。

″Despedida″ Shakira Fridaの怒り、悲しみのシーンが・・・

その間にフリーダは子供を身ごもるが流産してしまう。

心の痛みや寂しさを「ヘンリー ・フォード病院」(1932年)、「メキシコ・アメリカ国境上の自画像」(1932年)、「私の衣装が掛か っている(ニューヨーク)」(1933年)などの絵にぶつけた。

ディエゴはロックフェラー・センターの壁画に レーニンの顔を描いたことで、ロックフェラーと対立、ロックフェラーはディエゴを解雇し、壁画を壊してしまう。(エドワード・ノートンがロックフェラーを演じています。)

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髪を刈った自画像 1940年

これを機に、ディエゴとフリーダは1933年12月に メキシコへ戻り、メキシコ市南部のコヨアカンに新居を構え、メキシコの生活が始まるが、ディエゴは嫁ぎ先から離婚して戻っていたフリーダの妹に手を出してしまいます。

ディエゴは亡命したロシアの革命家レオン・トロツキーを庇護し、フリーダの実家を提供する。

トロツキーとフリ ーダは互いに惹かれ合うことになりますが、トロツキーは2年後にメキシコを去ります。

フリーダ・カーロとトロツキー

トロツキーと共に滞在していたシュルレアリストのアンドレ・ブルトンが、フリーダ の絵の賞賛者となる。

ブルトンの尽力の末、個展が開かれ、ルーヴル美術館が「自画像(額縁)」(38)を買い上げる。ルーヴルにラテンアメ リカのアーティストの絵が飾られるのは初めてのことであった。

絵の成功とは別に、フリーダは、フランスで生活することに耐えられず、メキシコに戻るが、ディエゴが離婚を切り出し、カリフォルニアへ移って行く。

“Palma Negra”  Chavela Vargas Frida作品集

フリーダの体調は悪化していくが、この暗い時期こそがフリーダの芸術家として最も実りある時期であり、「二人のフ リーダ」(39)、「断髪の自画像」(40)、「夢」(40)、「森の中の二人の裸婦」(40)などの数々の傑作が生み出された。

トロツキーが暗殺され、ディエゴは行方をくらました。トロツキーの死とディエゴに捨てられた余波で、フリーダの容体はさらに悪化する。

彼女の足指は壊疽にかかり 切断、背中の手術も繰り返され、腎臓の感染症や他の合併症にかかる。

彼女は仰向けに吊され、鉄のコルセットを着せられた。「絵が描けるように私を直して」。ディエゴが現れ、再婚する。

手術と入院の繰り返しがもたらす痛みは「折れた 背骨」(44)、「希望なく」(45)、「モーゼ」(46)などの最高傑作を生みだした。 1953年、右脚切断。

鎮痛剤に頼り切りの生活と絶えることない感染症や合併症に、ついに彼女の体は持たなくなる。

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フラン・チャンと私 1937年

肺炎をこじらせたフリーダは永遠の眠りについた。1954年7月13日、47回目の誕生日を迎えた1週間後であった。』

「ファド」から「泣き女」から再び出会ったフリーダ・カーロ・・・YouTubeでは沢山の絵画、彼女のポートレート、映画「Frida」のアップロード動画がありました。

結局色々見ているうちにフリーダ・カーロに段々と染まって行き、映画「Frida」のDVDと「フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像」堀尾真紀子著(中公文庫)をAmazon.co.jpで購入してしまいました。

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「フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像」堀尾真紀子著(中公文庫)

実はDVDはGEOに借りに行ったのですが、ありませんでした。入れる予定もないとのこと・・・それならと購入することになったというところです。

昨日現在、既に、近所のローソンに商品が到着しているとのメールが入りました。今日、受領に行こうと思います。しばらく観る時間がない様な気もするのですが・・・

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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