神田明神から日本橋七福神

1月2日、今日は日本橋七福神をお詣りして廻ろうと。

どうせ東京に出るのだから、神田明神、湯島天神をお詣りしてから日本橋へ向うことを計画します。

計画を膨らませたのだから、早めに行動すべきですが、昨日の千葉神社の教訓を忘れて、お節をして、のんびりと出かけます。

結果としては、あちこちでお正月の人出のすごさを再度、実感することになりました。

お茶の水 淡路坂 一口太田姫神社

大分以前の話ですが、仕事始めの日だったと思います。敦賀に向かう途中に神田明神をお詣りしようと考えた事がありました。

この頃、以前は仕事始めの4日に行われていた、常宮での安全祈願祭が、仕事始めの翌日、5日に開催するということに変更されていましたので、今日中に敦賀にたどり着けばいいか、というところだったのです。

神田明神に着いてからびっくり。参道を溢れた行列が、本郷通りを1回、2回と折れ曲がり、清水坂下から、さらに蔵前橋通りを秋葉原方面に下っています。これは今日中に、敦賀にたどり着かんと、諦めました。

列をなしている参拝客は男性で言えば、まあスーツにネクタイの出勤スタイルで4,5人のグループという感じの人達が多かったように思います。

神田明神参道

仕事始めの挨拶を終え、初詣して、久しぶりに飲みに行くかと言う人達は多いのでしょう。

自分の居た会社は、そんなところだけは昔は世間並でしたが、徐々に世知辛くなり、近年では、年末は15時あるいは17時頃まで仕事で、職場で軽い打ち上げのみ。

仕事始めに至っては食堂に集まって、社長の訓示を聞くだけで、乾杯はなし、そのまま17時半まで仕事という素っ気なさでした。

現在ではどちらのタイプの会社が多いのか解りません。まあ、社員の意識を引き締めるという効果狙いなのでしょうが、1日、2日を厳しくしたとて、業績に反映されるべくものでもないだろうとは思います。

今日は、神田明神の参道に行列はできていましたが、鳥居の中に納まっていて、安堵します。ただし、随神門を潜ると、境内一杯に参拝客が広がっていました。

なんとかお詣りを済ませ、御朱印をいただきに行くと、銭形平次の碑の辺りで「猿まわし」をやっていて、思わず、椅子に座って見学してしまいます。

何時も、神田明神とセットでお詣りする湯島天神に向かいますが、こちらには大行列、湯島天神では始めて見る行列ができていました。なにか湯島天神に特別な年なのかと、ネットを調べて見ましたがわかりません。

湯島天神は諦めて、日本橋七福神巡りのため、三越前駅に向かいました。地下のモールで昼食して、地上に出ると、コレド室町のCMにでてくる福徳の森があり、福徳神社薬祖神社があります。

高層ビルの杜のど真ん中に箱庭のような神域がある不思議な感覚ですが、神社から言わせると貞観年間(859~876年)創建の社であって、ビルが押し寄せてきたのだというところでしょう。

三井不動産による日本橋再開発計画、「残しながら、蘇らせながら、創っていく」をコンセプトに官民地元が一体で推進されたプロジェクトの一環でこの森が蘇ったといことのようです。

日本橋再生計画のうち、日本橋室町東地区開発計画として、コレド室町、コレド室町2・3などが竣工し、2014年10月の福徳神社の再建をもって全体竣工した。とのことです。

ということで、七福神巡りをスタート、寶田恵比寿神社を起点として下記の順番に周りましたが、椙の森神社は御朱印と七福神巡りの印をもらうところに大行列ができていて、お詣りだけして、御朱印はパス。

人形町商店街協同組合

小網神社ではお詣りの列が1時間半待ちの大行列で、お詣りと御朱印を済ませたときには、7時過ぎていました。見上げると、上弦の三日月と木星がご苦労さんと微笑んで(?)います。

慌てて向かった、水天宮は、門を閉ざしており、お詣りすることはできませんでした。改装された水天宮、なんと、入り口がビルの中にあり、出入りが厳しく管理されています。

遠方からきたんですが、という虚しいお願いも、「明日お詣り下さい。」とやんわりとお断りされ、今までに何回と、お詣りしているし、いつでも来られるからいいかと。

再訪を期し、人形町の居酒屋でお食事して帰りました。

各神社の説明を人形町商店街「日本橋七福神巡りコース」からお借りしました。一部はしょってあります。

寶田恵比寿神社(恵比寿神)
元々は皇居前にあった宝田村の鎮守様。運慶あるいは左甚五郎の作とも伝えられる祭壇中央の見事な「恵比寿神」像。慶長11年(1606年)三伝馬取締役・馬込勘解由が徳川家康からこれを受けたと伝えられています。恒例の「べったら市」は元禄時代から人気です。

椙(すぎの)森神社(恵比寿神)
創建は約1千年前。田原藤太秀郷の平将門の討伐祈願や、太田道灌の雨乞い祈願などの記録も残る古社。江戸時代には神田・柳森神社、新橋・烏森神社などと共に「江戸三森」として信仰されました。10月の恵比寿神大祭は毎年大いに盛り上ります。

笠間稲荷神社(寿老人)
江戸末期 安政6年(1859年)、笠間藩主・牧野貞直が、日本3大稲荷のひとつ常陸笠間神社の御分霊を江戸下屋敷に奉斎。寿老人は長寿の神にして、お導きの神、幸運の神として、人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神とされる。

末廣神社(毘沙門天)
この辺りは、幕府の許可を得て、元和3年(1617年)に葭の茂る沼沢地を開拓して造られた遊女町葭原(吉原)。末廣神社はその氏神様として信仰を集めた。ここに祀られているのは多聞天の異名を持つ毘沙門天。世界の守護神であり、又、福徳を授ける神ともされています。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められています。

松島神社(大鳥神社)(大国神)
明暦の大火(1657年)以前、周囲は歓楽街で人形細工職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭(よし)町の芸妓傾城等々、芸能関係や庶民の参拝によりたいへん賑わいました。祀られている大国神は、密教の大黒天が元になり、大国主命と神仏習合して出来た神道の神で、破壊と豊穣の神として信仰されました。現在は豊穣の面が残り、大黒様として親しまれています。11月の酉の市が往時を伝える風物詩として今に遺っています。

茶の木神社(布袋尊)
かつて社の周りで、生い茂っていた茶の木がその名の由来です。下総(千葉県)佐倉藩主堀田家の屋敷神として布袋神が祀られています。布袋様は、福徳円満と防災の神様として知られています。また、この屋敷内はもとより、町方にも火災が無かったことから、火伏せの神としても信仰を集めています。

お詣りできなかった水天宮

小網神社(福禄寿・弁財天)
稲荷大神を主祭とし、540年前(文政元年1466年)に鎮座した古いお社。「福禄寿」と「弁財天」が祀られている。総尾州檜造りの重厚な彫刻が施された社殿と神楽殿は、中央区指定文化財。5月の大祭では神社大御輿で賑う。また、11月末の「どぶろく祭り」は奇祭として特に有名。なお、“福禄寿”は福徳長寿の神、また“弁財天”は商売繁盛、学芸成就の神として親しまれています。

水天宮(弁財天)
安産・子授のお宮として超有名な水天宮。九州久留米藩、有馬公が文政元年(1818年)久留米から分霊して屋敷内にお祀りしたのが始まり。毎月5日に限り町民にも参拝が許され、当時から多くの人々に親しまれてきた日本橋七福神を代表するお社です。

お像は運慶作と伝えられる手に琵琶を持たず、剣や矢を持つ勇ましい「中央辨財天」です。

三日月と木星のデート
くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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