銀座から日比谷

月に1度は日比谷図書文化館に通っています。

交通手段として四街道から東京駅までJRを利用、東京で地下鉄丸の内線に乗り換えて一駅の銀座から日比谷公園まで歩いています。

下の地図の赤い線で示された、丸の内線に沿って歩いていることになりますが、もう一駅乗って、霞ヶ関から歩いた方が近そうだなと地図を見ていて気がついた次第。

銀座駅のC1出口を出ると銀座ファイブの地下1階につながります。

銀座ファイブの地下は「おれのダシ」「スタバ」「サブウェイ」「花まる」「あるでん亭」などの他、インド、ベトナム、タイの料理屋が並ぶ、国際的?な食堂街になっていて、時間的にいずれかでランチしてから日比谷に向かいます。

以前は串揚げ屋さんがあったのですが、客が全く入っていない状態が続いているなと思っていたら、間もなく閉店したようで、なにやら改装中ですので、違うお店になるのでしょう。

昼から辛めのエスニックだと、午後の腹具合が心配で遠出の時には避けるようにしていて、和風のマイルドなお店ができてくれると有り難いなと。

まあエスニックでも辛いのを避ければいいのですが、どちらかというと、辛めに走ってしまうので・・・「おれのダシ」と「花まる」にいつも行列ができているので、似たような人が多いのかも知れない。

銀座ファイブを抜けるとJRの高架橋「山下橋架道橋」があり、潜ると日比谷に出ます。「ガード下」って方が馴染みがあるけど、正式には「架道橋」ということらしい。

現在強化工事中ということであちこちシートに覆われていますが、何回も通り過ぎていますが、工事中の音も、出入りする人間も見かけたことがありません。

新橋側には、中央に人がようやくすれ違えるような狭い通路があって、入り口に「新橋への近道」と記したパネルが貼ってありますが、好んで歩く人はまばらなようで、人影は見えません。

ガード下の中央付近に「山下橋」の由来の立て看が立っています。

「ここに山下橋があった。山下門に付随する見附の橋である。山下門の由来は昔、山王社(日枝神社)の下にあった門をこの地に移設したことによる、と。

いつもは、ガードを潜ると、そのまま真っ直ぐ、日比谷公園にむかうのですが、今日は少しルートを変えて、JRに沿って新橋方面に歩き、昔時々お邪魔していた、東電本店まで歩き、右折しました。

仕事で訪問していた頃は、入り口はかなりオープンな感じでしたが、今は、警戒厳重で、関係者以外近づけない感、ありありです。

みずほ銀行

その本店の前に内幸町の由来の説明板があったのですが、そこに下記の写真の地図が添えてありました。

写真下部の山下御門(右下)と幸橋御門(左下)を結ぶ御堀が現在はJRの線路、幸橋で交差する御堀が外堀通りで、虎ノ門と新橋をむすぶ道になっています。

東京電力前にある説明板

双方ともお堀が埋め立てられて、主要な交通網となり、山下橋はガード下に生まれ変わったということです。

ちなみに上部右、絵は切れていて見えないのですが、日比谷御門見附があり、これが現在の日比谷公園の入り口に残っている石垣になるようです。

上に示したのは自分の持っている本をコピーした物ですが、虎ノ御門、日比谷御門が解ります。

日比谷御門の右側が現在も残っているお堀で、左側は大半が埋め立てられ、一部が心字池として残っているのではないかと思います。

日比谷図書文化館

幸橋の左側が新橋駅で、幸橋と虎ノ門の間、現在では新橋一丁目の交差点に当たるところだと思いますが、「新シ橋(あたらしばし)」があります。

ふと、これが新橋の地名なのかと思いましたが・・・「新シ橋」は特定の橋を指すのではなく、江戸期に新しく造られ、まだ名前が付けられていない橋を指すようです。

オクトーバーフェスタ

この地図のさらに下部の見えていないところに汐留があり、ここに後に芝口御門ができ、芝口御門橋と改名された「新橋」と呼ばれていた橋があったのでそうです。

東海道を渡すこちらの「新橋」が新橋の由来、ということです。

心字池

東電本店前の説明には、現在、ミッドタウン日比谷となっている鹿鳴館の説明があり、さらに「内幸町」の由来が記載されていました。

1872年(明治5年)、幸橋の近傍にある大和郡山柳澤、日向飫肥(おび)藩伊東、石見津和野藩亀井家の上屋敷跡を併せて、幸橋の内側ということで「内幸町」となった。

心字池

また、同時に山下橋の近傍の陸奥白川藩阿部、薩摩藩鹿児島島津、肥前小城藩鍋島家の上屋敷を併せて「内山下町」とされた。

昭和13年、区画整理により、内幸町の一部と内山下町を併せて、内幸町1丁目となった、と。

心字池

山下橋の話も内幸町の由来も、説明板にぶつかって、解ったことで、街中を歩くことの楽しみの一つがこういうことなのか、と楽しくなってきます。

内幸町の大和郡山柳澤家は、赤穂浪士で吉良を庇う敵役として登場する柳澤吉保の家系になるわけですが、吉保は上総国佐貫、武蔵国川越藩主を経て、甲斐国を所領としていました。

ホテルペニンシュラ

吉保は甲斐国の出生であり、武田家の血筋に繋がることを喧伝していたようで、信玄の菩提寺である恵林寺に吉保も葬られているのだそうです。

甲斐国は江戸を守る要地として重要視され、代々、直轄天領とされており、当時は後の将軍家宣が甲斐甲府藩主であった。

日比谷堀

甲斐国の天領として地理的な要所という説明で納得ですが、武田信玄の目に見えぬ圧迫感が家康に対して、甲斐武田に対する拭いきれない恐怖感をいだかせ、甲斐国を特別視した、てな妄想を膨らませてみました。

5代将軍綱吉に男児が生まれず、世継ぎとして家宣が指名され、江戸に登ったことを機に、綱吉の寵篤い吉保が望んでいた甲斐を与えた、ということらしい。

東京會舘

吉保亡き後、その子、吉里は大和郡山に移封され、甲斐国は、甲府勤番を置き、再び天領に戻ったため、甲斐国柳澤家は吉保の一代限りとなったということのようです。

吉保の時代、柳澤家の上屋敷は都内を幾つか転居しているようですが、この場所ではないようです。

大江戸の仕切りが制定されたのが1818年ということで、よく見る江戸切絵図は、それ以降のものということで、古地図といえど、ほぼ幕末に近い状態を示しているものということになります。それ以前の話は個別に調べて行く必要があるようですが、歴史を辿り始めると切がないでしょう。

明治安田生命

日比谷公園心字池の日比谷堀側に、伊達政宗(~1636年)終焉の地の説明板がありますが、歿後200年後の前出の地図では伊達家の名前はなく長州萩藩松平家あるいは肥前佐賀藩松平家の敷地となっています。

2年前に千葉に戻り、東京周辺を歩くようになりましたが、吉保の整備した「六義園」、領主であった、「川越」を歩いており色々関連してくることも面白いなと思います。

動輪広場 まだ、待ち合わせ場所としては知名度が低くてあまり利用されていないみたいです。

日比谷図書文化館の帰りは時間に余裕があるので、日比谷公園を抜けて、東京駅まで歩来ます。

これからも、色々寄道して勉強していきたいと考えています。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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