義民ロード

2016年12月25日、ご近所でいつでも行けるという感じで、今までお詣りしたことがなかった宗吾霊堂へ向かいます。

特に理由はないのですが、千葉帰還後の街歩きは宗吾霊堂を起点と決めていました。ただ、単に、近場から、というところだったと思います。

成田市観光協会オフィシャルサイトの「義民ロード」を下図に示します。

義民ロード案内図成田市観光協会オフィシャルサイト

「義民ロード」は宗吾参道駅から麻賀多神社、宗吾旧宅を通り、印旛沼湖畔の甚兵衛公園まで歩くコースです。

実は、そう言いながら「義民ロード」の意味するところはよく解っていませんでした。

宗吾霊堂から甚兵衛公園に向かう途中で、宗吾旧宅を訪問し、離れのお宅にお住まいの「宗吾」の木内家ご子孫にお話を聴き、義民ロード、甚兵衛の渡しなどの命名の意味がようやく理解できました。

佐倉宗吾は本名を木内惣五郎といい、領主堀田正信の為政下の農民たちが年貢取立に困窮し、他国へ逃亡したりする者が後を絶たなかった。

惨状を見かねた名主の木内宗吾は、領主に直訴を行ったが、聞き入れられず、近隣の名主たちを伴い、江戸へ上って老中に直訴する。

老中への訴えも受け入れられず、宗吾はついには同行の名主たちとは別れ、死罪を覚悟で、単独で将軍へ直訴することを決意する。

決行に当たって、宗吾は、家族に最後の別れを告げると同時に、係累に罪が及ばないよう、妻女を離縁しようとの考えで、折から降りしきる雪をおして、佐倉に旅立つ。

印旛招にたどり着くが、吉高にある渡し場は、百姓の直訴以来、暮六つ以降の運行が厳禁され、舟は鎖で厳重に繋がれていた。

雪に閉じ込められた、渡し小屋の中で、草鞋作りをしていた、渡し守の甚兵衛は、宗吾の出現に驚くが、話を聞き、鎖を切り、宗吾を対岸に送り届ける。

帰宅した宗吾は妻女に離縁は拒絶されるものの、妻子に別れを告げることができ、再び江戸に上る。この、宗吾が最後に辿った往復の道を義民ロードということになるのだと。

上野寛永寺の物陰にひそみ、将軍家綱の御成りを待ち受け、ついに直訴を敢行、松平伊豆守の計らいにより訴えは取り上げられることになった。

直訴した宗吾は捕らえられ、妻子とともに公津ヶ原の処刑場で礫刑に処される。時は承応2年8月3日(1653年9月24日)であった。

宗吾霊堂

旧宅で伺ったお話では、妻女だけは死罪を免れたということでしたが、いずれにしろご子孫の家系は、宗吾直系ということではないのだと思います。

家に帰ってから、もう少し補足の知識を仕入れようと、ネットで調べても、史実として残っているものは少なく、佐倉宗吾(木内惣五郎)は実在の人物であっただろう程度のことのようです。

国立民族歴史博物館の公式サイトに下記の記述がありました。(義民の世界 佐倉惣五郎伝説)

「嘉永四(1851)年、歌舞伎に新しいヒーローがうまれた。『東山桜荘子(ひがしやまさくらのそうし)』の主人公浅倉当吾こと佐倉惣五郎がその人である。

百姓一揆がテーマであるこの作品は、関係者の予想をはるかに超えるヒットとなり、またたく間に日本中に広まった。各地の農村では、この物語を受け入れる素地ができていたのである。

幕府が作られてから250年、数多くの百姓一揆が発生し、義民を顕彰する活動も18世紀後半から活発になっていった。明治以降も惣五郎歌舞伎は頻繁に上演され、佐倉義民伝として定着した。

東山桜荘子 また講談・浪花節などでも積極的に取りあげられ、福沢諭吉や自由民権活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげた。

麻賀多神社

また昭和恐慌や戦後改革の時期などに、惣五郎の物語は新たな解釈を伴いながら思い起こされた。」
※さらに、関連記事記述を参考として、記事末尾に添付させていただきました。

公津の杜駅で名前が残っている「公津」ですが、今回歩いた、印旛沼沿いの義民ロードから成田ニュータウンでのエリアを「公津ヶ原」と呼び、成田ニュータウンの台地にかけて、120基もの古墳があったという「公津ヶ原古墳群」でも著名のようです。

古墳時代から人間が生活し、首長など地位のある人を埋葬するような社会が存在していたエリアの証左ということなのかしら。

墳墓が集中的に建てられて、だんだんと祭事に特化したスピリチュアルな地域になって行ったといことなのでしょうか。

新勝寺のお不動さんが神護寺からお出ましになり、最初に祭壇を祀られたのが、公津ヶ原であったということ(その後、遷座された)、「宗吾は公津ヶ原で磔刑に処せられた」と言う記述から、刑場がここにあった、ということから、そんな感じがするのです。

宗吾旧宅

現在の宗吾霊堂(東勝寺)は処刑後、宗吾が埋葬された地であるとのことです。

宗吾霊堂の広い境内の参詣人はまばらでした。正月は初詣で賑わうのでしょうが、クリスマスの今日は、その喧噪に備えて準備中でひっそり、という感じがしました。

お詣りを済ませ、御朱印をいただいて、「義民ロード」を歩きます。

杜の中にひっそりと麻賀多神社がありました。延喜式神名帳、式内社(国幣小社)、近隣の佐倉、酒々井などにある麻賀多十八社の本宮となる。

神社に関しては時々、自分にハマる社があって、シビれるのですが、って、うまく説明できないのですが、この神社も何か迫ってくるものがありました。

まあこういうのを、自分にとってのパワースポット、ということなのかと。

神社の公式サイトには境内左奥には樹齢1300有余年を誇る東日本一の大杉があり、パワースポットとなっているとの記述がありますが、自分は樹と言うよりは神社全体に何かを感ずるというところです。

宮司さんや、氏子の人達が正月の準備を進めているようでしたが、御朱印は1日と15日しか受け付けないとの張り紙があり、お詣りだけさせていただきます。

宗吾旧宅に上がり込み、丁寧なご説明を興味深く拝聴して、その後、ひたすら、甚兵衛公園に向かいます。

甚兵衛公園

途中に何軒か「鰻屋」さんが在るようだったので、楽しみにしていましたが、3時を過ぎてしまい、軒並み、閉店していました。

もう甚兵衛公園というところに、印旛沼漁業センターのレストランがあり、こんな時間でも構わないということで、お重をいただきます。

甚兵衛公園にたどり着いたのはもう5時近く、あたりが薄暗くなってきていました。甚兵衛公園から、宗吾霊堂参道駅および公津の杜駅にバスがあるので、乗ろうと思っていましたが、あまり時間がない。

甚兵衛公園

公園でのんびりして、印旛沼の夕陽を眺める時間がなさそう。

もう一つの案として、来た道を戻るのではなく、成田線の下総松崎まで歩く事も考えていました。ええい歩くかと。

印旛沼に沈む太陽を観てから歩き始めましたが、途中で真っ暗になり、自動車がかなりのスピードで行き交う、街灯もない、狭い道を、車を避けながら歩き続けるという、恐怖の行程を味わうことになりました。

※【参考】佐倉宗吾(国立民族歴史博物館

※1:佐倉藩と”惣五郎一揆”
惣五郎一揆を証明しうる史料はない。彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。

ただ公津台方村に惣五郎という百姓がいたことは、地押帳、名寄帳の記載から確かである。

この惣五郎が藩と公事(訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられていった。

※2:歌舞伎の惣五郎
東山桜荘子 「東山桜荘子」は嘉永(1850年代)の大ヒット後、幕末から昭和初年まで頻繁に上演された。

外題は改作にともない「花雲佐倉曙(はなぐもりさくらのあけぼの)」、「桜荘子後日文談」などと変化するが、明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着する。

見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。

嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。

※3:ひろがる惣五郎
歌舞伎の成功により講談や浪花節などでも惣五郎物語が取りあげられ、各地で物語が写本された。幕末から明治初年の一揆では、その組織化に惣五郎物語が取り入れられることもあった。

印旛沼

自由民権家は惣五郎を民権の先駆者としてとらえ、その偉業を受け継ごうとした。
惣五郎物語は数多く出版され、日本の代表的な物語として外国語に翻訳されたりした。

東勝寺は宗吾霊堂として多くの信者を集め、全国に惣五郎を祀る神社などが建立された。
(保坂智 企画展示「地鳴り山鳴り-民衆のたたかい三百年-」図録)

印旛沼
くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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