白毫寺、興福寺

新薬師寺のお詣りを済ませ、お隣の鏡神社にお詣りしてから白毫寺に向かいます。

白毫寺の起源は雲亀元年(715)、志貴皇子の没した地をお寺としたのが始まりと伝えられる。

その後、衰退するが、鎌倉時代に西大寺を再興した叡尊により再興され、道照が中国から宋版一切経の摺本を持ち帰り、一切経寺として栄えた。

白毫寺
白毫寺

室町期に戦火で焼失するが、寛永年間に興福寺空慶により復興され、本堂と御影堂などが残っている。(深!発見奈良,Wikipedia)

大分登ってきて、境内からは市内が展望できるのですが、空模様が芳しくなく、今一の景観。でも、気持ちはいい。

境内は紅葉に今一だったのですが、可愛い桜が咲いていました。子福桜との銘板が付いていました。

白毫寺
白毫寺

今日の折り返し点であった白毫寺にたどり着き、3日間の行程を達成。

大分時間が押し迫ってきましたが、最後の最後に予定していた興福寺をお詣りして、敦賀に帰ろうと。

ルート取りと時間の関係で東大寺ミュージアム、戒壇院、奈良国立博物館、元興寺などをパスすることになりました。

興福寺は最後の最後にたどり着き、時間がなく、限定されたお詣りとなりました。

公式サイトによると猿沢の池を含めた周遊コースがあるようですが時間が無かったため、五重塔、東金堂、国宝館と点だけのお詣りになってしまいました。

白毫寺
白毫寺

再々のことながら、なかなかどこも一度では済まないなと、嬉しい名残をたっぷり残しての奈良歩きでした。

既に時刻は4時ちかくになり、興福寺の拝観時間が心配なので、かなりの早足で興福寺に向かいます。

といいつつ、途中にあった、福智院地蔵菩薩座像をお詣り。福智院は僧玄昉が建立した清水寺鉢を起源とし、その後興福寺大乗院の地蔵堂となったのだそうです。

天井の高いお堂に鎮座する大きな地蔵菩薩座像は建仁3年(1203年)に造立されたということです。

靴を脱いで上がり込み、お話を伺いながらお地蔵様を拝ませていただき、ホッとします。

そうだ、興福寺の門限だと、御朱印をもらって、慌ただしく出発します。

なぜか福智院の写真データが見当たりません(汗)・・・帰ってからすぐ整理をする癖をつけないとこういうことになる・・・

猿沢の池
奈良ホテル脇の池からの興福寺

修学旅行の微かな記憶に、猿沢の池に映る興福寺の五重塔がありました。

興福寺に急いでいるときに池越しに五重塔が見えてきて、あっこれが猿沢の池か、と早とちりをします。

もっと池と塔が近かった様な気がするし、周囲にお土産物屋が並んでいたような記憶がありましたが、50年以上も前のことだし、見ている方角が違うのか、もしれないなと・・

これは現状認識の方が全くのでたらめで、写真では見えませんが、実際の猿沢の池はもっと五重塔に近いところにあり、自分の記憶の方が事実に近かったようです。

4時過ぎに興福寺にたどり着きます。

東金堂も国宝館も17時までの開館。でも16時45分までに入ればいいよと言っていただきますが、15分で追い出されるのでは寂しすぎる。

取りあえず、東金堂にお詣りして、16時30分頃にようやく国宝館に入館。

興福寺
興福寺

「阿修羅像は出口にちかいところですよ。」とのご指示をいただきます。

自分の中でも目玉は阿修羅像だったのですが、歩き始めた途端に、自分の想像を遙かに超えた仏像群の迫力にこころを奪われ、進むことができなくなります。

普段、国宝と言う言葉に惑わされないように、自分の気持ちだけを大事にしてお詣りしている・・・つもりなのですが・・・

なんなんだ、この限りなくと思われるほどに国宝の仏様の並ぶ様は・・・もう、すっかり負けてしまいます。とても30分弱で回れるような場所ではありませんでした。

仕方なく、時間に押されて、歩を進めると、確かに最後の方に、阿修羅像は、乾湿八部衆立像のお一人として、並んでおられました。

昔、教科書などに載っていたお姿はなんとなく褐色に光っているイメージがあったのですが、中宮寺の弥勒菩薩とごっちゃになっていたかもしれません。

目の前の阿修羅像は淡いピンク色に頬を染めて見える、白いお姿をしていて、見知らぬ人にお会いしたような、ちょっと意外な思いでした。

興福寺
興福寺

戸惑いを感じている間に、閉館時間が来て、追い出されます。

写真集「興福寺の仏たち」を購入、復元工事中の中金堂の前を通りホテルに向かいます。

ホテルに預けてあった荷物を受け取り、JRの便利さを知ったくまさん、JR奈良駅から京都に行きました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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