氷見一人ウォーキング2日目

1日目で立山連峰を満喫したので、2日目は街中を歩いて、光久寺の茶庭を鑑賞に行こうと。

光久寺までたどりつき、さらに元気があれば歩いて駅まで帰る、まあ、きっとダウンするだろうからそうなればタクシーを呼んでもらえばいいかと。

25日の夜は風呂の後にホテルの食事で楽しくお酒を頂き、睡眠たっぷりで朝5時に目を覚まします。

立山連峰から登る朝陽を見たいので、支度をして、暗い中を海岸に向かい歩きます。

比美乃江展望台2014.10.26

前日、海岸の公園のところに展望台があるのを確認していたので、彼処を確保して、夜明けを待つことにしようと。

まだ辺りが暗いうちに到着、さすがに誰もいませんでしたが、日の出の頃には20人ぐらいの人が集まったでしょうか。

東の空がだんだんと朱みを増してきて、氷見漁港から漁船がぽつぽつと出て行くのが見えてきます。

寒いけど、こういう時間帯が楽しくてしょうがなくて、余り気になりません。

氷見漁港は桃山時代(天正年間(1573~1592年))から定置網漁法が続けられていたのだそうです。

「「定置網」という言葉は明治34年制定の漁業法によって用いられるまで、富山湾沿岸では「台網」と呼ばれていました。」

定置網 台網  (有限会社 泉澤水産)

氷見観光協会の氷見ドットコムの定置網の記述を引用させていただきます。

「定置網が画期的な発展を遂げたのは、明治40年、従来操業されていた数ケ統の台網を整理してまとめ、当時宮崎県で大漁が続いていた新型”日高式大敷網(三角網)”が導入されてから。

その後、大正初年頃、阿尾(氷見)の上野八郎右衛門が日高式大敷網の欠点を改良し、網口など開口部を魚が逃げにくいように小さくした”上野式大謀網”を考案。

この上野式が今の「越中式落し網(大敷網)」の原型となっている。

登り網を取り付けた「落し網」が大正後期から昭和初年頃に出現した。

昭和40年代には「二重落し網」が考案され、それに伴い網の素材も改良が図られ、大規模な網の敷設が可能となりました。

比美乃江

氷見の網は、氷見沖2~4km、水深40~70mのところに張られ、漁場までの時間は約20~30分、網を起こすのに30分~1時間程度かかります。

大敷網(二重落し網)は、垣網・角戸網・登り網・身網の4部で構成されています。

1.垣網    魚を囲い網に誘導
2.角戸網   魚が最初に入りこむところで、回遊する溜り場、すなわち運動場
3.登り網   一旦身網へ導かれた魚が、容易に網外へ出ないための網
4.身網    魚をとり上げる網」

現在氷見で使用されている大敷網

釜石の泉澤水産の公式サイトに定置網の歴史が記載されており、下記の様に発祥の方式と地域が記載されていました。

元和年間は秀忠の時代なので、桃山時代からという記述とは若干異なるようですが、系統立って確認されたのが元和ということで、その以前から実施されていたのが事実なのでしょう。

<泉澤水産、定置網の歴史>

・大敷網
山口、豊浦郡湯玉浦(元和年間、1615~23年)

・台網
富山、射水郡灘浦(元和7間、1621年)←現在の氷見のこと。

・大謀網
岩手、船越村(文政12年、1829年)

比見之江

藍色の空に朱色の陽の兆しが輝きを強めて行くのが解ります。

きっとこの時間帯の彩りが自分にとっては一番好ましい一瞬のような気がします。

太陽が昇り始めて、色々とカメラの条件を換えて写真を撮りますが、あっという間に、陽が昇ってしまい、空が白々としてきて、自分の至福の時は終わります。

陽が昇った途端に一緒に日の出を見ていた人達はあっという間にいなくなります。

暫く未練がましく、残っていましたが、あきらめて、ホテルに戻り、冷えた身体をお風呂で温めて、朝食を取ります。

荷造りをして、チェックアウトし、駅までタクシーを頼み、駅で荷物を預け、歩き始めます。

街中を歩き始めると鬱蒼とした森に囲まれた神社があります。いつも、あまり寄り道せずにと思ってはいるのですが、気がついてしまうと、通りすぎることのできない性格で・・・

一回りして伊勢玉神社の鳥居を見つけます。

伊勢玉神社

外に立っている、御由緒書きを見ると、創始年不明であるが、天平19年(749年)、越中国守主大伴家持が社殿造営し、以降、氷見地方、総鎮護の神として、地方豪族に崇敬されたと。

氷見には大伴家持に関わる万葉の歌碑が多くたてられているのですが今回は全くフォローしていません。

氷見市観光協会の公式サイトを見ると下記の記述があります。次回、歩く場合には参考にしてみたいと思います。

「大伴家持は天平18年(746)から天平勝宝3年(751)までの5年間、越中国守として赴任、年齢で言うと29歳~34歳の青年期にあたる。

在任中に、数々の歌を詠んでおり、万葉集収録の家持の約480首のうち、224首が越中時代に詠まれた歌とされている。

また、家持と家持をめぐる人々が越中をテーマとして詠んだ歌は95首ある。

氷見市立博物館

このうち氷見の地名にかかわる歌は32首にのぼり、国府から近い「布勢の水海」や、英遠の浦、比美の江、多胡の浦、松田江の長浜などの美しい景観が氷見の歌枕(歌に詠まれた名所)に残っている。

氷見市の各地には、その名残として18の”万葉関係碑”が建てられており、万葉の心を今に伝えています。」

神社は、後年(年代の記載はありません)、伊勢神宮から主祭神として、天照大神を勧請し、伊勢玉神社と称することになります。

その後、保元の乱などで、焼失を繰り返し、一時、神明社とされていたが、天保15年(1844年)再建、復号された。

今残る拝殿は天保当時の建物、本殿は嘉永3年(1850年)の建立とあります。

お詣りをしますが、宮司さんがお出かけになっているということで、御朱印を頂くことはできませんでした。

市内

しばらく歩くと右手に市立博物館があり、覗かせていただきます。

作品を撮るのではなく、展示室全体を対象にするような形であれば、撮影可能ということで、農具類を集めた部屋の写真を撮らせていただきました。

2階の特別展示室では昔と現在の街の様子を比較する写真展が開かれていましたが、現在を知るところが少なく、あまりピンときませんでした。

比較写真集を購入して後で楽しもうと。まあ、今読み返しても、やはり、ああここが、と思い当たるところがないので、新旧双方とも未知の場所であることには変わりなく、空しさが・・・

何回か訪れる内に土地勘もでてきて、面白くなることでしょう。

先の行程を考えると余りのんびりしていられないなと、とりあえずの目標であった、上日寺を目指すことにします。

上日寺 イチョウ

「朝日山上日寺は富山湾を望む朝日山の中腹にある高野山真言宗の寺。

創建は681年(天武天皇10)、開基は法道上人と伝える。かっては泰澄大師も修行した霊地とも伝えられています。

上日寺観音とよばれる本尊は閻浮檀金(えんぶだんごん)1寸8分の千手観世音菩薩で、竜宮城から太田浜に漂着したと言われ、33年毎にご開帳される。

平安時代には越中国守藤原仲遠、戦国時代には氷見森寺城主長澤筑前守の帰依を受け伽藍を整備し栄え、江戸時代には藩主前田家の祈願所となりました。

かっては七堂伽藍が完備し、18坊を有した大寺で、祈雨の修法で信仰を集めた。数度の火災により、現在は江戸時代の本坊(銀杏精舎)、観音堂など数宇を残すのみである。

毎年4月17、18日の観音縁日に行われる「ごんごん祭り」は、1664年(寛文4)の大干魃のとき雨乞いにより慈雨を得たので、感謝のために鐘を突き鳴らして喜んだことが起源とされ、現在も参道には露店が並び、参詣者で賑わいます。

上日寺 大聖不動明王

境内入り口にある大公孫樹は、推定樹齢千年あまり、幹周り12二メートルで、国の天然記念物に指定されています。」

北陸三十三カ所観音霊場巡り「23番朝日山上日寺」、コトバンクなどを参考にさせていただきました。

北陸三十三カ所観音霊場のサイトを見ていて、福井県の観音霊場で、嶺南は一応全てお詣り済みであること、福井全体でも、八番の越前市帆山寺、九番の丹生郡福通寺を除くと、網羅したことになるのかと。

一番の中山寺から始まって、番外の石観音も含めて前10ヶ寺をお詣りしていることになります。

ただ、四番の高成寺はご本尊の訪れた時に特別開帳期間でありながら、どなたもおらずに、観音様にお詣りできず、御朱印もいただけなかったので、再度お詣りに行こうとは考えています。

ご本尊 千手観音菩薩像 前仏

上日寺の本坊に上がり込み、御朱印を頂きながら、お祭りの話など色々なお話をしていただき、すっかりまったりしていまいます。

長居をお詫びして、階段を上って、観音堂にお詣りします。

今まで、平泉寺、鶏足寺、瀧谷寺などをお詣りして、かっては塔頭を多く抱えたお寺の参道を似た様な感覚をもって歩いてきました。

この上日寺も規模は小さいような気はしますが、朝日山一体に広がっていた協力なお寺だったのだろうと言うのが解ります。

観音堂の厨子の扉は閉まっており、厨子の前に前仏がおられました。

この項続くです。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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