根津からお茶の水

根津神社は日本武尊創祀とありますが、詳細の記録はないようです。

文明年間(1470年、80年代)に太田道灌が千駄木に社殿を建立、その後、同地に居館設置のため、団子坂上に遷座。

第5代綱吉が、後の第6代家宣を養子として迎えた時に、家宣の屋敷跡に家宣の産土神である根津権現の社殿を建立(1706年)し、現在にいたるということのようです。

土地勘がないのでよく分からないけど、なんとなく、現在地の周辺を転々としたという感じみたい。

根津神社2015.02.09

家宣は将軍を継ぐと、新井白石、間部詮房を重用して、正徳の治による幕政改革を進めますが、白石の強引な手法に対する幕藩体制の反発があり、効率的に改革を果たすということにはならなかったようです。

幼くして、家宣の跡を継いだ家継の代でも新井白石、間部詮房は改革を続けますが、一層逆風が強まる中、8代吉宗の代になり、改革は終焉を迎えます。

吉宗は新井白石、間部詮房※等を罷免して白石の施策を一部を残して、大幅に見直し、享保の改革を進めます。

根津神社

Wikipediaの「正徳の治」の項目には、白石の業績の全面否定ということではなく、根幹の部分は残っていた、との記載があります。

役職を持たない旗本で、どちらかというと幕外の立場の白石が既存勢力との軋轢を産みながら突き進んだのに対し、吉宗は是々非々の姿勢で、体制の流れを見通しながら、改革を進めた、ということなのでしょうか。

「観音の里」で高月を歩いた時に、対馬藩の対朝鮮方の窓口として、朝鮮との国交に苦労した、雨森芳洲のことを知りました。

根津神社

新井白石は木下順庵門下の芳洲の兄弟子であったのですが、白石の朝鮮通信使待遇改訂での将軍の呼称問題で芳洲と対立します。

当時、天皇が「日本国国王」で、将軍家を「日本国大君」と呼称する習わしとなっていたところ、白石の改革では将軍を「日本国国王」と呼称することとします。

中国をバックにした朝鮮国王に対して、天皇をバックにした同等の立場ということで日本国王としたい、ということのようです。

天皇を象徴的存在に格上げして、武家社会の確立を世間に知らしめるという意味合いがあったのではないかと勘ぐってしまいます。

芳洲は突然の変更を避けるべきとの諌言をします。また学問の派閥対立もあったようで、林羅山の学派からの反対も大きかったのですが、白石は家宣の威を借りて、押し切ってしまいます。

秀吉が壊滅させた日朝関係の修復の前線に立って努力してきた芳洲の無念はいかばかりだったか・・・

と、いつもの脱線がありました。

根津神社

当時、根津神社は根津権現と呼ばれ、本殿に垂迹(すいじゃく)神である須佐之男命(本地仏 十一面観世音菩薩)を祀り、相殿(あいどの)神として山王大権現(本地仏 薬師如来菩薩)、八幡神(本地仏 阿弥陀如来)を祀る根津三所権現として人心を集めた。

権現の「権」は「仮」の意 であり、権現は仮の姿ということで垂迹神と同義と考えて良いようです。

即ち、根津権現=須佐之男命=>十一面観音菩薩と言うことになります。

湯島天神

6代家宣、7代家継の代には9月の例祭で神輿が江戸城に入ることを許され、神田祭り、山王祭に並ぶ、天下祭りの一つとして、認められたが、吉宗の改革でまた、元に戻されることになる。

なんとなく、吉宗は家宣、白石の業績をある程度認めてはいたものの、二人が人間的に好きではなく、ありとあらゆることに異を唱えたというところがあるような気がしてなりません。

社殿に向かってお詣りをしていると目の端に視線を感じます。

湯島天神

外人のカップルがどういう風にお詣りするのか、自分のやり方を参考にしようとして凝視していたのでした。

2回バウして2回クラップ、最後にバウと、振り付きで教えます。

これは面白いと思ったのか御朱印をもらうくまさんに二人がくっついてきます。

御朱印の意味は自分でもよく分かっていない、確かお寺の場合にはお経を納めた印としてもらうと言う話があったけど、神社の場合はなんなのか・・・

湯島天神

冷や汗を流しながら、お詣りした印にもらうんだと適当に説明してしまいます。

もし、興味があるなら、カードでもらえるよと言うと、2人に1枚ずつ欲しいと。

嬉しそうにお札を眺めている2人に別れを告げ、お稲荷さんにお詣りします。

さて、念願の根津神社のお詣りを終えてどうするか・・・

とりあえず不忍通りにでて、ランチビールでランチを。

粋な飲み屋さんで地元の常連さんがとっくり片手にランチをしつつ、町内会の集まりの話をしています。

食事を終えて、湯島天神までの距離を聞きます。まあ15分くらいかね。

それなら、湯島天神のお詣りを済ませて東京に向かっても、十分時間があるかと。

湯島天神にくるとお天気が良くなってきて、梅がほころびかけて、穏やかな雰囲気に包まれます。

猿回しに人が集まっていました。

※間部家
詮房(あきふさ)が享保元年(1716年)失脚、越後藩に移封され、享保5年に病没。実弟で養嗣子の詮言(あきとき)が後継となるも、越前鯖江藩に転封。鯖江は間部家として明治維新を迎えた。

間部詮房は武家の出身ながら猿楽師を業とし、その後、大名さらには将軍家の執政に上り詰めた、稀有の履歴を持つ。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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