供養祭0913

3年前になると思いますが、自転車の前輪が溝にはまって跳ね飛ばされ、頭骨にヒビが入り、一週間検査付けの入院をしたことがあります。

幼稚園の頃、疫痢で入院して以来の入院生活でした。

手筒山頂
手筒山頂

怪我に関しては、自分が不注意であることは確かなのですが、蓋のない「どぶ」が多く放置されていることには、文句を言いたい気がします。

自分がハマった場所は、いまだに蓋なしのままです。近くを通るたびによく死ななかったと冷や汗が出ます・・・と、まあ関係ない話はともかく・・・

退院してもふらふらしているので一週間お休みをもらい、リハビリをしました。

リハビリと言ってもステッキを突きながら、 普段は余り行かない手筒山中心に、中池見、金ヶ崎を縦走したり、敦賀の街の中をほっつきまわると言うものでしたが。

手筒城址
手筒城址

 

歩いている時に、大谷吉継(吉隆、刑部少輔)の菩提寺である永賞寺も見つけ、偶々居られたお坊さんに吉継の由来を聞いたりしましたが、余り印象に残ってはいませんでした。

きっと大谷吉継その人に対する関心がまだ希薄だったこと、関連するお寺、神社は幾つかあり、その一つなのだろうなと言う感覚でした。

今回、その永賞寺で大谷吉継供養祭が開かれるということで覗いてみようかなと。

実際の命日は新暦の9月15日にあたるそうですが、近場の日曜日としたのだと思います。

永賞寺ではNAVIには出てきませんでしたので、記憶をよみがえらせながら出向きました。

ネットで敦賀観光協会のホームページを見ると、「遊敦塾」で供養祭を含むツアーが組まれており、常宮の国宝「朝鮮の鐘」まで見に行くとあって、終了が16時頃とのこと。

その日ちょっとやらねばならないことがあったので、ツアー参加は止め、供養祭のみと決めました。

永賞寺ではNAVIには出てきませんでしたので、記憶をよみがえらせながら出向きました。

ネットで敦賀観光協会のホームページを見ると、「遊敦塾」で供養祭を含むツアーが組まれており、常宮の国宝「朝鮮の鐘」まで見に行くとあって、終了が16時頃とのこと。

その日ちょっとやらねばならないことがあったので、ツアー参加は止め、供養祭のみと決めました。

一応数珠は持って行きましたが、何時もの通りの半袖シャツに短パン、スニーカと言う姿で降り立つと、礼服姿の方が並んでいてちょっとビビります。

せめて、シャツを衿のある黒を選んできて良かったという感じでした。

まあ、あとから来た、いかにも見学風の方や報道陣の人はラフな服装でしたので安心しましたが。

報道陣は中日(県民福井)、朝日、読売、RCNなどが居たようです。そのうちビデオのお姉さんがちょっと良かったので激写・・・気が付かれて、じろっとにらまれました。

供養祭は「大谷吉継公顕彰会」主催で5年目になるとの説明があり、そんなに新しいの?って、意外な感じがします。

来賓の「敦賀水戸烈士遺徳顕彰会」の会長の挨拶に以下の説明がありました。

『本日は、敦賀に二つしかない顕彰会の一つとして招待されました。「水戸烈士・・」の活動は大正の頃から始まり、史実を追求することを行なってきました。

「大谷・・」は今ご説明のあったように歴史の浅いもので、歴史を大切にしない敦賀の人の態度は理解できない。今まで何をしてきたのか・・・』

と言うような出だしでした。

永賞寺
永賞寺

7~8年前から有志による供養は行なってきたようですが、供養祭として実行するようになったのがつい最近とのことです。

ファンがそれなりに居られる戦国武将である吉継公に対し、近年まで行事がなかったのは、確かに不思議な気がします。

供養祭に敦賀市長代理は来ていましたが、お付き合いと言う感じ。

むしろ市が積極的に目玉を作る目的で、今の戦国時代ブームに乗って吉継に力を入れて売り込んでもいいのではないかと思います。

敦賀のゆるキャラ(敦賀市観光協会)
敦賀のゆるキャラ(敦賀市観光協会)

大人気の彦根のヒコニャンに対抗して、2008年に上の写真のキャラクターが制定されたそうです。

左からバショさん(芭蕉)、ツヌガ君、ヨッシー(吉継公)なんだそうです。

吉継公はハンセン氏病に犯され、顔の崩れがあったため、常に頭巾を被っていたということで、ヨッシー君も頭巾を被っています。

永賞寺
永賞寺

先週、たまたま、普段は見たことがないNHK大河ドラマ「天地人」を見てました。ちょうどその回に関ヶ原で吉継が戦っているシーンがでてきました。

福井出身の津田寛治さん演ずる吉継公は頭巾だけでなく、鼻から下を隠したマスクをした姿で描かれていました。

こちらの方が史実に近いのだと思います。

新快速が開通する時に、長浜は黒壁スクエアを中心に全国規模で訴えかけるイメージを構築して成功したということが言われています。

一説には敦賀に新快速が延伸する時に、長浜は脅威を抱いたとか・・・今はすっかりご安心されていることと推察します。だいぶ昔に長浜を歩いた時の写真です。

また脱線しました。来賓挨拶、読経についで、敦賀吟遊会による大谷吉継を唄った詩と吉継の辞世の唄の吟詠。

永賞寺
永賞寺

続いて北陸剣友会三方支部・無双直伝「英信流」による居合い抜きの演舞がありました。真剣が目の前で踊るのは迫力がありました。

引き続きお焼香となりましたが、見物客は誰もお焼香に行きません。

ちょっと恥ずかしかったけど、短パンの「あらかん」は列の後ろに並んでお焼香してしまいました。

永賞寺供養祭
永賞寺供養祭

吉継の辞世の句は、『契りあれば 六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも』※

意味は判りませんが、「後先はあれどいずれ人間は死ぬもの」というように受け止められます。

吉継の諦観がにじみ出ているような気がします。

※Wikipediaなどで確認すると、吉継と共に戦った平塚為広が状況が見えてきた時点で吉継に送った『名の為に棄つる命は惜しからじ 終にはとまらぬ浮世と思えば』に対する返句であったのだそうです。

永賞寺供養祭
永賞寺供養祭

自分が感じた孤独な諦観のみではなく、義に殉じた盟友に対する、熱き思いやりがあったということなのかと。

六つの衢とは六地蔵、六観音で表される、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の分岐点を指すということです。

一通りの供養が終了し、絵物語による関ヶ原の決戦のお話が始まる直前にツアーのバスが到着しました。

供養祭に参加しようとツアーに参加した方達はちょっと寂しかったのではないでしょうか?

終了後、吉継ファンらしい女性が名残惜しそうに供養塔の写真を撮っていました。

絵物語の方は記者のインタビューを受けていて、翌日の新聞の主役になられていました。【参照】

Wikipediaの文章や、他のブログなどの大谷吉継の文章を見てみましたが、あまり人物象が浮かび上がりません。

なぜ、三成を説得に行ってミイラ取りみたいに西軍戦いの中心になってしまったのかなど、どうも今一入り込めないところがあります。

Amazonで検索したところ吉継公の小説、解説など10くらいヒットしました。もう少し知りたくて探していた「フェアポート・コンベンション」のCDと共に、数冊を注文してしまいました。

供養祭は、前に想像していたものに比較して、なんとなく寂しい気持ちになるものでした。

関ヶ原ブームに乗った盛り上げがもっともっと可能なのでは?せっかくの人気が出る可能性のある素材がもったいない。・・・そんな余分なことを考えていました。


【追記】
冒頭のリハビリの一週間が過ぎ、仕事に復帰してからしばらくした後に、健康診断がありました。

体力測定で両目をつぶり、片足立ちをするというのがあり、トライしましたが、目を閉じて片足挙げた瞬間に崩れると言う感じで2秒も持たず、焦りました。

三半規管に影響があったものと考えられます。最近やっていませんが、さすがに今はもう少し立っていられそうです。


【参照:読売新聞9月14日大谷吉継供養祭記事】

『豊臣秀吉に仕えた武将で、敦賀城主だった大谷吉継の遺徳をしのぶ供養祭が13日、菩提(ぼだい)寺である敦賀市栄新町の永賞寺で営まれた。

吉継は1589年に敦賀5万石の城主となり、1600年の関ヶ原の戦いでは、盟友・石田三成を助けるために西軍として参戦したが、敗れて自害したとされる。

供養祭は、地元の有志らでつくる「敦賀城主大谷吉継公顕彰会」(松坂肇会長)が、吉継の命日にあたる旧暦9 月15 日(旧暦だと10月12日ということでしたのでこれは誤りだと思います)に合わせて、2005年から毎年開催している。

この日は約50人が参列し、境内にある吉継の供養塔の前で順に焼香。詩吟の奉納などもあった。

本堂では、同会員の婦人靴販売業丸山誠さん(57)(敦賀市神楽町)が〈絵語り〉を披露。吉継の関ヶ原での戦いぶりを自作のクレヨン画8枚を使いながら、紙芝居風に情感たっぷりに語り上げた。』

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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