みそら・山梨地区の巨木を訪ねて

6月8日四街道自然同好会「山梨の巨木」観察会。

四街道に引っ越して、35年程経ちます。20年前に、同じ四街道市内ですが、今の住居に転居しています。

クリ

駅に近い場所に新な団地の募集があり、ダメ元で申し込んだら当たってしまった。というあまり計画性の無い話ではあります。

今回の目的地「みそら、山梨」は、以前、住んでいた場所で、なじみのところではあるのですが、当時は犬の散歩で一定の場所を歩く程度でしたので、殆んどが未知の世界でした。

大隆寺球形塔身宝篋印塔

自然同好会を立ち上げた主要メンバーがみそら、山梨近辺の方だった様で、今でも域内の旭公民館が集合場所となることが多い気がします。

もともと、この会を知るきっかけとなったのが、「セミの脱皮とホタルの観察会」だったのですが、セミの脱皮はみそら団地の中央部にある公園の樹々でした。

さらに、ホタル鑑賞の場所は犬の散歩でよく歩いた農道にかっては水田だった所でした。

四街道に引越した当初は、水田が多く生きていて、ホタルが飛び交っていましたが、年毎に水が張られることのない荒れ地が増えて行くようになっていました。

農業を廃業しつつあり、土地の売却期待で休耕田になっているのかと考えていましたが、散歩の途中で農作業していた方とお話をして、ちょっとぞっとします。

住んでいた団地の周辺は台地上の尾根部と谷部が交互にあるような地形になっていて、谷部に水田が広がっています。

団地は台地部の上部を削って造成されており、土を積み上げたり、湿地にシートを敷いた基礎などに比較し、安定だろうと考えていました。

おじさんによると、台地部に、団地ができてからは農業用水の確保が難しくなってきたんだと。

かって、地上に降りそそいだ雨水は、台地部に浸透して、保水され、やがて、湧水として、谷部に流れ出て、水田を潤していた。

団地造成に伴い、団地内の地表がアスファルト舗装で覆われていき、雨水は土に浸透することなく、側溝に流れて、下水溝に落ち、結果、湧水がなくなってしまった、ということでした。

テイカカズラ

事実の程は不明ですが、あり得そうなことだなと。

宅地造成により、生態系を変えてしまうこともあるという恐ろしさに思い至ったということです。

当時、農薬の空中散布が行われており、嫌なところに引っ越ししてしまったなと暗い気持ちになると同時に、ホタルの生息数減少の一因だろうと言う話もありました。

しかしながら、自分達が越してきたことにより、もっと本質的な、水田の機能そのものを殺していく構造的な変革が徐々に起きていたということなのかと。

今日の観察会は以下の通りです。

公民館をスタート、大隆寺→旭小学校(イトヒバ、コブシ)→みそら小学校(ダイオウショウ、メタセコイア)→通称、縄文のタイムトンネル→香取神社(アカガシ、スダジイ)→天御中主神社【アメノミナカヌシ、妙見神社】(サイカチ、ムクノキ、ケヤキ)→

通称:縄文のタイムトンネル

栗原邸(イヌマキ樹齢)→石橋邸(1700m2!、ケヤキ、スダジイ、ユズリハ、ボタン)→斎藤邸(ケヤキ)→山梨の森→豊受皇大神【トヨウケスメノオオカミ】(スダジイ、イチヤクソウ)→旭公民館

シロハツ

旭小では校長先生がお出ましになり、説明をいただきました。この地はかっては道路を隔てた大隆寺の境内であったこと。創立145年目にならんとすることなど教えていただきます。

先週、東京メトロ「東京まちあるき」で、アルマーニの制服で有名になった泰明小学校が140周年記念、と記しましたが、なんと旭小学校の方が古いということで驚きです。

道路を隔てた小学校の敷地も境内にあった大隆寺は相当な寺領のお寺だったようです。

今日は、朝日小学校を始め、みそら小学校の他、大隆寺や個人のお宅にお邪魔して、庭を拝見するわけですが、当日の担当役員の方達が下見する際に、根回しをしており、何時から何時頃の間にお邪魔すると時間帯を告げているようです。

会の構成員の方達の凄まじい知識欲のなせる技で、行動予定はまあ、時間通りにはいかずに、役員の方達はやきもきする結果になります。

ただ庭を拝見するだけならともかく、旭小のように校長先生がお出ましになったりすることがあるので、ある程度の礼儀は必要なんだろうと思います。余分な心配をしたりします。

今日巡った巨木は樹齢でいうと、200年~300年という記載がありました。樹齢って、年輪を数えずに生きている樹の樹齢を測定する方法ってあるのだろうか。

朝日新聞デジタルに「縄文杉」に関連した記事が載っていました。

「生長錐(すい)」と呼ばれる器具を使う方法はあるのだそうです。空洞のある錐で、幹の中心に向かってねじ込み、引き戻すと、円柱状の標本が採取できる。年輪を数えてサンプルを埋め戻すが、傷つくことは否めないのだと。

鹿児島県屋久島の「縄文杉」は高さ約25メートル、幹の周囲約16メートル。1967年に地元紙の記事で「生き続ける“縄文の春” 推定樹齢3000年以上」などと紹介され、全国に知られる。

ママコノシリヌグイ

70年代以降。過去に伐採された屋久杉の記録や気候データなどをもとに算出した結果、樹齢7200年とされる。

80年代になって、腐食して、空洞になった内側から採取した標本を、出土遺物などに用いる放射性炭素年代測定法で測定した。

結果、2170年前という数値がでたのだが、この数値ではすでに弥生時代に入っており、縄文杉ならぬ「弥生杉」に改称か?ということになる。

しかしながら、採取されたサンプルが正確に中心部の部材かどうかは明確でなく、少なくとも、2170年以上、ということが証明されているということのみらしい。

2005年に折れた枝を、放射性炭素年代測定法や生長錐などで測ったところ、枝のつけ根の部分の樹齢は、約1000歳と推定され、本体は1000年以上であることが証されたということになる。

この縄文杉には、伐採のための試し切りの跡が残されている。日本の巨木の多くは、人跡未踏ゆえに生き残ったのではなく、何らかの理由で切らずに残されたといえるのだろう。と

アスチルベ

縄文杉に関し、「日本の巨樹、巨木」に以下の記事がありました。

約6000年前に屋久島の北方の硫黄島の噴火により屋久島の森林が消失したとの文献が見つかったため、7200年説は覆されることになった。と。

イチヤクソウ

さらに、千葉県天津小湊町にある清澄の大杉は、昔より千年杉と呼ばれてきた。

昭和中期に隣りにあったほぼ同様の大きさである杉が倒れ、調査すると年輪の数は約380を数えるのみであった、

当時からさらに時を経て、40年程加えても、420年で千年杉には届かないのだと。

結局、現時点では生きながらの樹齢測定は困難なことは明白で、樹自身が年齢を語るものではなく、地元に残る伝承、文献などに残る土地の歴史、周囲の環境の状態などから「推定」されている、と言うことのようです。

ホタルブクロ

従って、周辺の情報により、言われている樹齢の確度の高いものもあるし、一桁程度は誤差があることなるかもしれないという精度の樹齢もあるし・・・

あまり、細かい数値にこだわらず、ともかく古い樹なんだ、ということでいいのかと。

話が脱線したままになりました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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