養源院は、ほぼ紅葉が終わっていました。また、盛りの頃に来てみたい。
紅葉の盛りとは別に、宗達と血塗りの天井人気のせいなのか、観光客が押しかけてきていているようでした。
受け付けを済ますと、もう既に案内のおばちゃんから説明を受け始めているグループの中に入れと、聞けなかった話は次の会で補えば良いのだと。
ちょうど白象図杉戸絵の説明が終盤の所から参加させてもらいます。結局、タイミングが合わなかったので一周りしてから、白象の前で一人で座ってしばし、眺めることができ、良かったかもしれない。
白象図は博物館の琳派の展覧会で見て、良いなと思い、出展しているお寺の名前を明確に覚えていなかったのですが、いつか拝観したいと思っていました。
博物館からこんなに近いお寺だったのかと…しかも、今まで、何回も養源院の前を通り過ぎていたのに、宗達と結びついていませんでした。
えらそうに絵が好きとか言ってるくせに、こんなものです。
その後、血天井の説明を聞いているあたりで、もう次のグループを引き連れて別のおばちゃんが入ってきます。
同時に3グループ程度がどこかで説明を聞いている感じ。宗達の絵をじっくり見ると言うより、関西おばちゃんのパワー炸裂で圧倒されます。
若冲と「トリ」を楽しんだ国立博物館では、他に特集陳列「皇室の御寺 泉涌寺」展が開かれていて、阿弥陀如来や不動明王に囲まれて、幸せでした。
わが部屋に写真を飾っている「楊貴妃観音」は残念ながら陳列時期がずれていて、おられず、残念でしたが、博物館のあの展示室に比べると、なんか、こちらのお寺の方が世俗的な匂いがしてしまいます。
入り口にある唐獅子の杉戸と奥にある白象の杉戸が開閉により見える絵の組合せが変化し、客を迎えるこころを表すというような説明があり、面白いなと思いました。
疑いぶかいくまは、宗達が当初から意図したことなのか、疑問符が頭の上にへばりついていましたが。
養源院は1594年(文禄3年)、淀君が父、浅井長政の21回忌に建立、その後焼失するも、妹のお江の方(後の崇源院)により1621年(元和7年)に再建され、徳川家の菩提寺となった。
再建の際に、石田三成の攻撃に力尽き、自刃した鳥居元忠始め、380余名の血に染まった伏見城の床材を天井に使用したのが血天井、ということらしい。
菩提を弔うということにしても、なんと壮絶なやり方をするのか、と言う気がします。
宗達は当時、無名であったが、再建を急ぐ江に依頼された本阿弥光悦の推挙があり、養源院の仕事をして、世の中に認められていった、出世作にあたるのだそうです。
杉戸絵の「唐獅子」、「白象」は各々、普賢菩薩、文殊菩薩の乗り物とされており、宗達は徳川の家臣たちの霊を慰めるため、題材としたと言われている。
ちょっと、余分なことを考えていたのですが…杉戸絵にはガラスケースがはまっていて、直接触れることが、しているけど、こんなに人が出入りするような環境で保存していて、いいんだろうかと。
下記のサイトを参照させていただきました。
京都トリビア×Trivia in Kyoto
HIGASHIYAMA district
さあ、智積院に向かおうとすると隣の法住寺にきになる看板が。
そうだ、今日は12月14日か…お詣りして、通常の御朱印の他に、赤穂義士の特別御朱印をもらいました。